カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の86件の記事

メガネコワレタ・・・。

夜中に目を覚まして、メガネを探すと布団の中にあった。ぐにゃってなってた。

クイクイッと曲げて元に戻していると急に手ごたえが軽くなって、

「終わった・・・。」

案の定金属部分が疲労してフレームがポロリと折れた。

結構長い間頑張って使ってたんだけど、終る時はこんなもんですね。

数年間自分はいつもこの眼鏡越しにいろんな物を見てきた。

良い事も悪い事も、楽しかった事もつらかった事も知ってるんだと思うとなんか少し悲しくなった。この眼鏡を買いに行ったころは今よりもはるかに幸せな時だったし、壊れても手放すのが惜しいくらいだ。

裸眼では到底社会生活を送れないけど、花粉症の時期にコンタクトはつらいな。

このまま裸眼で生活していたら、視力が回復してこないかな~とか淡い期待を抱いたりして。

一緒に買うと度付きのサングラスが半額になるというので、サングラスも買ってしまった。朝の通勤や日中は結構眩しいし、バイクのヘルメットのシールドを交換してしまうと、夜の帰宅は難しいので、手軽に交換できるサングラスと言う提案はありがたかった。最悪予備のメガネとしても使えるし。

今日は沢山お金使っちゃったから、今月はちょっと自重しないといけないな。別に生活苦しくないけど。来月は車の車検もあるし。

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メタボ。

仕事から帰ってくると、親が「最終警告! たけしの本当は怖い家庭の医学」を見ていた。

メタボだし糖尿病だし、高血圧だし、あそこもここも、いろんなとこが悪くて、明日にも脳梗塞とか心筋梗塞で倒れるかもしれない。

でも別に元気に暮らしてるし・・・。

自分がいつも思うのは、病気って悪いことなのかな?って事。

もっとちゃんと言えば、年を取ってから病気になる事って、異常な事なの?

人間の寿命は、どう頑張ったって200歳まではいかないと思う。

150歳にならないと子供が産めるようにならないのに、平均寿命が80歳では人類は絶えてしまう。でも実際は20歳なら体は成熟して子供も産める。

40歳なら孫がいてもおかしくないし、子供と孫が同い年って事もなくはない。もっと頑張って代々10代で子供を産めば、曾孫と子供が同い年も可能だ。

80年生きれば十分だし、もっといえば50代でも十分。

そのころになるといろんな所の病気が出だすのは、そうプログラムされてるから。

20代で命を落とす病気が発症するプログラムでは、その家系は当然途絶える。でも50歳でなら、特に影響はない。その年で子供がいないなら、その後も子供がいないことのが多いかもしれないし。

メタボで、脳梗塞や心筋梗塞になるのって、いけない事なのかな?

好きなもん食って、好きな事やって、そんで突然死。むしろ最高じゃん。

拷問を受けながら100年生きるより、好きな事やって50年で死ぬ方がよっぽどいい。

だいたい変に助けちゃうから、変に機能障害とかになって病気が怖くなる。

わーって遊んでてバタッて倒れれば、怖いのなんかあってもその時だけだし。

だいたい死ぬことが悪いことなのか?って話だ。

どうやって死んだら、世間は許してくれるんだろう?

老衰ってなんだ?それって最高の遺伝子を持ってなかったらたぶん無理。癌の家系はやっぱり癌になる。でもさっき言ったけど、子供が成人してから発症するがんは、別に子孫に影響はないし、それで死んじゃっても良いじゃん。

生まれてくるのがお祝いなら、死ぬのはゴールなんだからやっぱりお祝いじゃん。

だいたい生まれてくるのは、母親の御苦労さまのお祝いであって、子どもじゃない。

だってマラソンのスタート地点でお祝いしてる奴なんか見たことない。祝うのはゴールしてからでしょ。

途中苦しくても、ゴールしたことはやっぱり偉大な事なんだよ。

病気になってゴールでも良いじゃん、病気はゴールへの近道なんだ。

ああそうか、近道=ずるいっていう意識か。

病気せずに苦しい世の中を生きているのに、病気であっさり楽になりやがって、病気になるやつはずるいやつだ、病気は悪だ。っていう変化だ。

でも病気にならなくてもやっぱり死ぬんだし、良いじゃん。別れるのはさびしいかもしれないけど、死んだら関係ないし。そんなん受け入れていかなきゃいけないことだよ。

生きていればさびしいかもしれないけど、死んだ人間に文句言えんし。死ぬってもっと清々しいもんだよ、本当は。それを全ての悪みたいに言って暗くなって。

楽しい死に向かって、楽しく生きればいいんじゃないの?

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放置自転車。

3~4日前から家の前に自転車が止まっていた。

後輪のタイヤ(ゴムのとこ)が、外れてチューブがベロッと出ている。何すれば普通のママチャリのタイヤが外れる?乗り捨てる時にわざと外したのか?

昔鈴鹿サーキットを走った時、スタートしてすぐの第1コーナーで、いきなりタイヤがすっ飛んで、リタイヤした人がいたな。あれはまだわかる。レースだしガンガンに空気圧高めて挑んだんだろうね。でもチューブラーは接着がまずいとね・・・。

今日は暇だったので、ちょっと興味を持って触ってみると、タイヤ以外は結構まともだ。

ペダルを回せばスムーズにタイヤも回る。(チューブが飛び出てるから半周くらいだけだけど)タイヤのぶれも無いきれいなもんだ。

早速パンク修理をしようと、作業を始めたが、どうもパンクしてないような・・・。

前輪も後輪も空気は少ないけど、完全に抜けてない。一応タイヤの裏をチェックして、何か刺さっていないか確認して、ってしてると、自転車の前に車が止まった。不審な・・・。

どうも持ち主が親と車で取りに来たらしい。修理してそっと戻しておこうと思ったのに・・・。

少し話をしてると、親が出てきて・・・、って親が昨日警察に連絡したんじゃん!それを知らずに息子が勝手に直す。いや~素晴らしく善良な家族だ。

結局タイヤをはめただけだけど、あのままじゃ持って帰るのも大変だったし、乗って帰れてよかった良かった。なかなかハキハキとお礼の言える良い学生さんでした。

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ブログ引っ越し、やっぱり帰ってきました。

ブログを一回ライブドアに引っ越してはみたものの、なんか使いにくかったんでやっぱり帰ってきました。

タイトルを変えて心機一転。内容はやっぱり日々の生活の中にある植物の移り変わりをメインで、バイクのこととか書いていこうかなって思ってます。結局一緒だね。

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消しゴムのクズ

ゴミの分別は細かい。
紙、段ボール、新聞紙。
プラスチックや金属。
消しゴムを使って、紙のケースの注意の項を読んでいると、
「消しクズは不燃物です。」の表記が。

難しいです。

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寒くなって来ました。

寒くなって来ました。
更新はして無かったけど、植物は順調に増えるわけで、買わないようにはしてるけど、温室が必要なものもあります。
去年は、二階のデッキに作って、地熱を利用出来ず、効果が弱かったようなので、今年は地上にちゃんとしたのを作ろう。
温度変化が多少は緩やかになるように、二重構造にしたりして。

最近は何かを作りたくて、あれを作ろう、これを作ろう。そのためにはあんな道具やこんな道具が必要だ。
結局道具が増えて行く。
材料を運ぶのは大変なんだよね。

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自由?

大切なものを失い、それに拘束されなくなりはしたが、その空いた時間は、はたして自由と呼べるだろうか。
それに費やした時間や気持ちはすべて過去のものとなり、今はもう何も生み出しはしないが、得るものは大きかったはず。
今後自分がどう生きて行くか、恩返しが出来るような道を歩みたい。

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ナイフ規制

事件が起きるとすぐ規制。規制して困るのは、事件を起こす人ではなく、一般の無害のユーザーだということは誰もがわかっているはず。しかしとりあえずそうしとかないと、また事件がおきたときに自分たちの逃げ道が確保しにくい。

だいたい殺人という大罪の前では、ナイフ程度を持ち歩く銃刀法違反なんて屁でもない。車は規制できないし、ガソリンも規制できない、包丁も何もかもは規制なんてできない。昨今の流行の周囲の人を巻き込むタイプの毒ガス自殺も、販売の規制は出来ない。何ならその辺の道端にでも花屋でも人が死ぬような毒草はある。

生活が苦しい人間が、必ずしも犯罪を犯すわけではないけど、年に何億とか収入のある人間がクローズアップされる一方で、必死で働いている自分は生活してくのに精一杯かそれ以下。やってられないって気持ちはわからなくもない。でも無関係の人はいけないな。

世の中のどこに歪があるおかげで、自分が苦しいのか、その原因を見つけてそこを潰さなくては。まあ金持ってるやつから税金いっぱい取れば良いんじゃない。生活できない高齢者から搾取してる暇があるなら。

でも結局、金、金。そんなこと無いって気がつくことが大事だと思う。生きてくのに必要だけど。お金たくさんあったら買いたいものあるけど、別に無くても良いし。

規制、法律とかルールが細分化すればするほど、人が愚かになっていく気がする。

誰も居ない真夜中の細道で赤信号、べつに止まってる必要なんて無いじゃん。何のための赤信号だよ。要は轢いたり轢かれたりしなけりゃいいだけだし。日本の法律を全部知ってる国民がどれだけ居るんだ?でもほとんどは罪なんか犯さずに生活しているし、仮に犯していても、まあまあで済む程度、法律なんか知らなくてもモラルというものがあれば普通は問題が無い。

タバコは二十歳になってからとか、未成年者が吸うと罪だけど、べつに人に害が無いところで一人で吸う分には個人の問題。子供が高いところからジャンプして遊んでいるのは、大人が見れば危険でやめさせたいけど、べつに法律に違反はしてない。でも即死の可能性だって無くは無い。

人を守るための法律が法律を守るための人に、生きるための仕事が仕事のために生きる。学校のルールがいやで入った族の中は完全な縦社会くらい面白い。

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椎間板ヘルニア 日常生活が普通に送れる 体操 

すっかり医者に不信感を抱いたので、自分で直すことにした。

今までツボや体操などで痛いことは、効果があるような気がしていた。しかしそれで今までそれほど効果が上がっていなかったんだから、その考えを改め痛くない方法に変えた。

本を読んでいると、椎間板ヘルニアの状態になっていても、痛みを感じず普通に生活している人もいるらしい、それが違う検査でMRIなどを受け発見されると言う。でも痛くないから治療もいらないとか。

背中や足の体温が自分で触ってもかなり低いことがわかる、僕の場合右側なんで、右腰から右足にかけて左と比べてもずいぶん低い。

軽い運動で徐々に体が温まってくると、痛みも弱まりそこそこ動ける。

と言うことから神経の圧迫と言うよりも、血行不良が痛みの原因なんじゃないか?

また、骨盤のズレによる背骨の横方向の湾曲、足の長さの狂い、どちらが先か知らないがそれが原因か。本当に痛いときは、正面から見てまっすぐ立つことはできず、体が横に傾いていた。これで骨盤がまっすぐであるはずがない。

足の骨がどちらか縮んでしまったとは考えにくい、筋肉が硬直して引っ張りあげているために短くなってしまったか、背中の筋肉の片一方が緊張して腰を引き上げているか、またはもっと骨と腱の話なのか知らないが筋肉か硬直したままになっているような感じがある、これで骨盤の角度も、血行も良いはずはない。

とにかく手術をしないで、自分の考えを肯定してくれる本をブックオフの100円コーナーで探し、いろいろ読み漁った。

中でも体操のやることが少なく、簡単なもので今の回復に効果があったかもしれないものを紹介する。

やることは簡単。

1.痛い腰(足)と反対側の膝を抱えると言うか、両手のひらで引っ張る。この時肘は伸ばして、膝と手で引っ張りあいの力比べをする感じ。

2.痛い足は伸ばしたまま、少し浮かせる。ただし僕も最初は痛すぎて浮かすことができなかった、その場合は床に着けたままでも良い。少し浮くなら、曲げている足の親指を伸ばしているほうの膝の裏にいれ、ツボっぽいところを刺激しながら足を上げるサポート。

3.腰を軸に自分がロッキングチェアの足になったような感じでユラユラとする。机の角とか回りに物が無いのを確認は大切。

と、これだけ。

これを一回に10回程度、一日2回くらいかな、起きた時と寝る前とか、やってみると効果があるかも。

よくいろんな体操が載っているけど、やる事が多すぎたり時間がかかったり、でもそんなに劇的な効果がないから、やってることが合っているのか自信も無いし、やる気も下がってしまう。

自分もまだ完治というわけではないけど、四六時中痛みに付きまとわれていたことを考えれば、今はいろんなことができるし、またやる気にもなる。

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自転車三人乗り

子供を前後に乗せた三人乗りは、以前から禁止されていたはずだが、黙認されてきていた。

それが今回の法の改正で、正式にダメということになったと新聞の記事になっていたのが、先日というほど最近でもないがそれほど時間もたっていない。しかし子供を持つ親としては、自転車に子供を一人しか乗せられないとなるとずいぶん困ったことになるそうだ。

そこで新たに、子供を乗せてもふらつき難いような自転車ならば容認のようなことになっているようだ。

現状で、後ろに子供を乗せてもふらつきにくい自転車と、前に子供を乗せてもふらつきにくい自転車があるそうで、それをあわせれば問題は解決できるだろうと、ラジオで言っていた。

ところで三輪自転車では問題があるのだろうか?三輪ならば勝手に倒れることもないし、乗り降りの安定感も、二輪でスタンドを出した状態よりはるかに良い。

問題点は運転しにくいことと、幅がある分狭い道で不利になることだろうか。

しかし子供を乗せて走る訳だから、猛スピードで走ることは人道的に避けるだろうから、スピードを出してカーブが曲がりにくいと言うのは、自分勝手だろう。後ろの籠を、メインフレームとつなげ、後輪とはメインフレームとのサスペンションを介して設置することで、振動も防げる、要はバイクの構造だ。左右の車輪は独立した機構にすれば、片側だけ何センチか高いところに乗り上げても、バランスが悪くなることもある程度防げると思う。

三輪と言っても、ハンドルの幅を考えれば、後輪が特に横に張り出してしまう訳ではないはず、結局駐車スペースもさほど変わらず、すり抜けもそれほど変わらない。

大体多くの店で駐輪スペースと言うのが、車の駐車場に対して軽んじられ過ぎると思っている。車1台の駐車スペースで、自転車なら5台は置ける。それなのにか、それ故にか知らないが駐輪場は狭い。

それと自転車は本来車道を走るものだが、自分たちのように原付の法廷速度以上で走っていればそれほど苦にはならないが、ゆっくり走るような自転車にとっては今の車道を走るのは酷な話だ。

法律は環境を整備する前に禁止事項ばかりを設けるので、どうもチグハグだ。

極端な話、子供を何人乗せようが倒れて怪我をするのは自分たちだし、人に危害を加えることになるかもしれないが、それは車など乗っていれば、保険に入っていようが免許を持っていようが関係なく可能性はある。どんなに法令を遵守していても可能性はある。

自転車のような免許の制度のないものまでも、自己責任に出来ないなんて国は過保護すぎるし、自身の安全に配慮できない国民は未熟だ。

そのうち道路で走って転んで怪我をする人が続出したら、「道で走らないように」なんて法律が出来るかもしれない、馬鹿馬鹿しい。

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椎間板ヘルニア 医者不信

自分がしばらく正社員にもならずにいたのは、椎間板ヘルニアになったからだ。それが5年位前。

腰が悪いのに、無茶をしてスポーツや仕事をしていたので、くしゃみも恐る恐るだったし、寝返りや起き上がるのも、靴下を履いたり、歩いたりとにかく眠っているとき意外は常に痛みと同居していた。

病院は初めのころ行ったが、結局はリハビリと称して温熱パック、牽引、マッサージ、それと個人のストレッチ。結局体が痛いのに病院まで行き、長く待たされ、自分でストレッチをやるのにお金がいるというのが面倒でもあり、効果も実感できなかったのですぐに通うのをやめてしまった。

しかし数年して腰だけでなく、足にまで痛みが出て症状は完全に椎間板ヘルニアになった。手術も考えながら仕方なくまた今度は違う病院にいき、MRIで検査したところ完璧な椎間板ヘルニアであったらしい。仕方なくまた病院へリハビリに通うことになったし、コルセットも作った。

しかしコルセットは筋力が落ちると有名なので、結局2~3回使ったくらいでやめてしまったし、薬局で痛み止めやシップなど出されたが、望んでいるのはそんな薬に頼った回復ではない、僕は痛み止めのようなその場しのぎの薬と言うのは使ったことが無い、大体もう4年も痛みと同居しているのだ、いまさら痛み止めって。まあ痛いから病院にいったのだが・・・。

手術の話をしたときに、医者がさらっと言った言葉に、「痛みは残る」と言うニュアンスが含まれていた。

腰椎椎間板ヘルニアの原因は、腰椎の間にある椎間板がはみ出し、神経を圧迫するから痛みがある。だから神経を圧迫しないように、はみ出た部分を切除なり焼くなりするのが手術のはずだが、痛みが残るとは?

患者の意見を簡単に言うと、椎間板なんてはみ出てたって良いから、痛みが無いようにしろ。ということだ、椎間板を切除して痛みが残るような手術なんて金貰ったって要らん。医者は勘違いしてるのだろうか。この事で、椎間板ヘルニアに対する医者の評価は地に落ちたと言って良い。

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日の出

日中の太陽の色は黄色と言うか白色だが、子供が絵を描くとき、赤い太陽を描くことは少なく無い。

最近徐々に日の出が早くなってきて、真っ赤な太陽が昇ってくるのを眺めながらの出勤だ。

真っ赤な太陽は、眩しくて肉眼では見ていられない日中の太陽と違い、比較物があるための目の錯覚だそうだが大きく、動くスピードも速く力強く感じる。

その由来はともかく、日本の国旗は白地に赤丸と言う実にシンプルな構図だが、なかなか良いものだ。

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人間の発揮しきれていない能力

クイズ等で回答を発表した途端、口数が多くなったりする。自信が無い表れだ、正解を聞く前から言い訳をしているのだ。
今から書くことは、概ね正しくは無いけれど、全くの間違いでもないところがこの世の不思議なところだ。
世の中の事は、出来ないと思ったらまず出来ない。簡単な事を謙遜気味に言うのは参考ならないが、全力で臨むような難問に対して出来ないと思ったらもうダメだ。楽しみだ、挑戦してやる、臨むところだ、と思っていたい。そうする事で自分の中にある思いも寄らない力が出るものだ。
ここから…
人が何か出来ると言うのは、自分がそれを出来ると思い込んでいるか、無意識に行えるほどたやすいと言う事だ。
そして多くの、人力で使う道具であったり、鉛筆や消しゴムと言った筆記用具等は、それを持つ事によって、ナイフなら木が切れる、金槌なら釘が打てる、と言ったようなイメージが容易に出来る。
それらは、人がイメージをたやすくするための導入的役目を果たすもので、もしかしたら完璧なイメージがあれば、道具が無くても出来るかも知れない。
現代人は、いろんな道具に頼り生きている。しかし自分の能力をもっと開放すれば、案外…。

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忘年会

忘年会を高校の同級生とやってきました。

やんちゃだったみんなもすっかり大人になってきて、性格が丸くなって来ましたね。

といってもアフリカでリアルにレジスタンスに銃を突きつけられた人、船が転覆しそうになりかけたコック、忘年会のために急遽日帰りで東京から仕事をすっ飛ばしてきた人、正月はまた帰省するのに。いろんな人がいます。

そんなことをしてても、やっぱり人としてはだんだん穏やかになって来ました。

人を判断するときに、よく回りにくっついている地位だとか、功績だとか、財産だとかに目を奪われて、人を判断してしまいがちになりますが、趣味や仕事はあくまで自身を磨くか、生活の糧でしかなく、それによって作られた人格が僕には興味があります。

人の心の進む道を、法律で規制はできません。もしかしたら自分でもできないのかも知れなのです。乗り込んだ電車の次の駅は、すぐそこに見えているかもしれないし、永遠に無いのかもしれないのです。もし駅があったとしても、過ぎた駅には帰れず、分岐点で無ければ降りたところでまた乗り込むしかないのです。人の先頭に立っている人が、支持者に突き動かされて立ち止まることができず、苦悩の日々をすごしているのです。動き出したものはなかなか止まりませんね。

さて今年が終わるということは、僕にとっては今の職場を離れるということで、来年明けからは新しい職場が待っています。今よりももう少しお金がもらえて、今よりもう少し自由時間が無くなって、今よりも格段に趣味的な職場。楽しみ。

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名古屋へ買い物、でも目的はうまい棒

近所の友人宅へ遊びにいくと、急遽名古屋へ買い物に行くことになった。長い付き合いなのだが、ずいぶん違う人生を歩んでいるようだ。

「まずガソリンスタンドで給油ではなく洗車」

ガソリンスタンドは、ガソリンを入れに行く以外の用途で僕は使ったことが無いのだ、しかもそれもすっ飛ばして洗車のみしにいくと言う発想が無かった。まあ僕の車にはず~っとGTウイングがついていて、入れ無かったってのもあるだろうが。あと僕は自分で洗いたい、修理しなきゃいけない箇所とか発見できるしね。

「そして高速に乗る」

高速など自分の運転する車でどれだけ乗っていないか。僕は金欠と有り余る時間には恵まれていたので、ひたすら下道を走る生活をしている。急ぐ必要を感じたことも、遠くに行くことも無いので縁が無いものだ。高速道路の工事に携わったことは何年もあるのに。

「さらに10kmで降りる高速のパーキングエリアで食事」

僕は基本的に外食をしない、高速にも乗らないのだからそのパーキングエリアに入る事も少ないのも当然。友人はうどん、僕はたこ焼きで済ます。

「栄の地下駐車場に駐車」

栄の地下駐車場は、30分280円なんですね、高いな~。使い慣れてる人はそういうものだと思ってるんだろうけど、僕はもっぱら路駐なんで、もっとも何年か前から即駐禁にするおじさん制度ができて以来車で行ってないですね。出口の料金払うところに人が居て面白かった。機械があるのに、まずその人にカードとお金を渡して、その人が機会に入金するシステムは何でだろう?6単位の1680円だったかな。

「ナディアパーク」

名古屋の目的地はナディアパーク。大体栄ってだけで行かない、自分はもっぱら大須派ですので。あの太い道は挟んで人種がまったく違うんで踏み越え難いですな。LOFTで誕生日プレゼントと称して豚毛、天然木グリップのヘアブラシを買ってもらいました、半年くらい遅いですがね。って言うか友人の誕生日が明日。ぼくはうまい棒を買うのが買い物の目的でしたので、当初金額はうまい棒換算で話が進んでいました。100円=10うまい棒のような。文房具売り場ではまだそれでもよかったんですが、もう少し上の単位が必要になってきたんで、1000円=10メントスのような単位が生まれました。しかし彼の目的である衣類の店に来ると、メントスでは足りず、10000円=10(アル)バイトと言う単位と、数万円する服が当たり前だったので、10000円=日給と言う単位を儲けました。

しかしカーマで買った冬用防滴・防寒着2980円の上着に、エドウィンのジーンズを穿いた僕とはまったく縁の無い世界っていうか、費用対効果が著しく悪いって言うかね。僕の衣類に求める効果が、季節に合っていて暑くも寒くも無く、作業で破れず丈夫であると言うことに対して、彼らの求めるものがデザインや、異性へのアピールだとすれば、費用対効果は高いのかもね。まあ僕はそれらの服と比べてもカーマで買った服がデザイン的にも劣っているとは思っていないのだが・・・。相容れない雰囲気が漂っていたと思います。

店員を見た感じ、どの店でもほとんどがやけにスマートで、髭率が高かったのは、服のセンスがどこの店も同じ方向性なのかな。あと男は黒ばっか。

ナディアパークといえば、学生時代は良く上階の貸しダンスフロアみたいな部屋でとあるサークルで練習をしました、懐かしいです。

ここからはごく普通の買い物ですが、人ごみの中すっかり疲れました。「イルミネーイショーン真下に見おーろしー」何度歌ったことか。

ナディアパークでは、服は結局買わず公武道へ。

僕は空手、テコンドー。彼は柔道ってことで彼は柔道着を購入しかけましたが、柔道家が自分だけ柔道着って一方的に不利じゃないですか?そりゃ閉め技やなんかではすべりにくくなって有利なんですが、自分は相手の胴着をつかんでは投げられないわけで。かといって相手にこの服を着ろとはいえないわけで。購入前によく気がつきました。

空手の拳サポーター赤青のみを買って、栄を出発しました。

栄を出た後はとあるイオンへ。

アジアン雑貨で友人の誕生日プレゼントと称して石と、それを入れて首から下げれるような網紐を、って言うか男友達にそんなものをリクエストするなって感じです、彼が恐ろしくなってきました。僕は興味本位でテレビ石を。図鑑で見たことあります。採石しに行ったり、わりと石好きです。検索したら「ウレキサイト」って言うそうです。乳白色をしているんですが、図柄に底の面をくっつけると、上の面にくっきりと浮かび上がってきます。方向性があるようで、加工品は当然その方向に研磨してあって、上と下を平らにしてあるんでしょうね、横の面は当てても乳白色をしているだけです。砂などのの上におくと、容器の中に砂がいっぱいに入っているようにも見えます。買ったのは人口テレビ石のようですが。

やっとお菓子屋です。

うまい棒を3本づつ16種類、48本買いました。バーコードは各味ごとに打たないといけないようで、僕がかごいっぱいのうまい棒を持ってレジの前に行ったとたん、店員の顔が曇った気がしました。しかし48うまい棒は当然480円、かさと店員の苦労の割には安価です。しかし昔と比べて小さくなりましたね。むかし明太子味の中に、ご飯を詰めて食べたことがあります。

友人はイオンの専門店街で妥当な服と、二人が一目で気に入るカバンを買うことができました。

古本屋を前後にはさみCoCo一でカレーを食べ帰宅。時間はすっかり23時、友人宅に出向いたのが12時だったから11時間、まあ良くあることだね。むかし30時間ぐらい連続でプラモ作ったことあったな。

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節電とエコとか

冷蔵庫やエアコンの設定温度の変更や、省電力の電化製品を使うなど他にも小技を駆使すると年間数千円から数万円の節約になるらしい。それは正しいしかしそれが果たしてイコールエコと言い切れるだろうか?多くの人はきっと勘違いしていると思う。それはエコではなく、単に家計の節約術だ。

節約して残ったお金で例えば旅行に行ったり、何か商品を買ったりする。
旅行に行けばその移動手段がCO2を排出するだろうし、商品も人の活動によって作られたり、運ばれたもので、エネルギーが使われている。電化製品なら新たに電気を使うし、そうでなくても石油製品ならいつか廃棄する時にはCO2が出る、自分ではない誰かが石油を使って作ったものは、結局CO2を出している。

エコは今ブームで、企業はそれを自社製品のイメージアップの戦略として使っているように思う。一見正しいことも、個人の考えでは計り知れないところでは、エコとは正反対の道を進んでいる可能性もある。

PETボトルのふたを800個集めるとワクチンを一回注射できるらしい、それのすごいところは、400個で約一キロこれが10円らしいのだ、800個集めて20円、要はワクチンの注射が一回20円なのだ。ペットボトル500mlの飲料が普通140円程度であることを考えると、恐ろしい。ふたを800個集めるのにどれだけの労力が必要だろうか?400個を燃やすと3150グラムのCO2が出るらしい、ガソリンは1リットル当たり約2300グラムのCO2が発生するらしい、800個集めるのにガソリンを2リットル使えば、CO2の排出量で赤字となり、800個で20円なのにガソリン1リットルはおよそ150円である。日本人のアルバイトの最低賃金は大体700円ぐらいだろうか?一人で一時間に28000個のふたを、車も何も使わずに集めることができれば、採算が取れることになる。

「2年間で北海道から九州までの個人や学校、企業、障害者施設などから約600万個のふたが集まった。」
とあるが、金額にしたら2年で150万円だ。北海道から九州までの個人や学校、企業、障害者施設が活動した成果は、月6万円でしかない。単純に年収2200万円の人の日給分でしかない。企業の中にはそれくらい居ただろうに。

結果だけ見れば、ごみになっているもので人がすくえるすばらしいものだが、はたして良い事をしたのだろうか疑問である。人が活動すればするほどCO2の排出は増える。この活動でどれだけ余計にCO2が排出されただろう。

世の中は難しいものだ。

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賞味期限偽装

賞味期限の偽装で営業が停止になった会社が、営業再開したり新たな会社で発覚したり忙しい。問題の種類を分けると、賞味期限の偽装、商品の表示と中身が違う、のどちらかだろうか。

そしてそれがどう問題となるかというと、賞味期限の偽装では製品の味が落ちる、雑菌の繁殖が進み腹痛のような身体への影響、菌の種類のよっては深刻なことになるかもしれない。

商品表示の問題では、単純に詐欺行為で、ブランド名を信頼してそれなりの金額を支払っているのに、中身が違うということか。

私たちはいったい何を信用して食品を選択すればいいのだろう

というような文章をたまに見かけることがある。そんな時この人はいったいどうしてしまったんだろかと自分は心配になる。

冷蔵庫の中には賞味期限どころか消費期限すらぶっちぎりで過ぎてしまったものがあった経験はないだろうか?そんな時どうしたらいいだろうか、自分で判断すればいいのだ。

まず見た目で明らかに中までカビまくっていたりしたものは、残念ながら僕なら捨てる、カビの部分を落とせば食べられそうならそうする。

においを嗅いで異常を確かめる。本来は無かったような匂いがしていたら要注意。

その二つをクリアーしたものは味見をしてみる。

今の時代、味とは美味いか不味いかだけを判断するものとなっているが、食べちゃいけないものを判断する最後の砦だ、食べて不味いものはすぐに吐き出せば普通問題ない。

食べ物を作ってもらうだけでなく、それが食べれるか食べれないかまで他人に保証してもらわないといけないのかと心配になる。普通は食べられる物を提供されているのだから、後は自分を信用して食べればいいのだ。これが山で採ったきのこだとかだともう少し慎重になるが。

商品表示の問題で中身が違うというもの。

食べて味が落ちると思わなかったのだろうか?本物を知らないのに金だけはあるから、安いものと高いものがあると、中身は同じでも高いものを買ってしまう。

時計を買って動かなかったり、明らかに狂うようならば交換に行くだろう。それは時計というものを知っていて、それが正常ではないと判断できるからだ。

肉などブランドが違っていて、食べてすぐにおかしいと言わなかった人は、知らないのだ結局何を食べても同じなんだろう。

これも人任せにしているからおきる問題で、ブランドだから美味いという短絡的な発想だからだ。

本来は目隠しでも何でもいいが、自分で食べ比べて美味いものを選んでいった結果が特定のブランドになったりするものだ。またはブランドは知らないがあの店の肉はいつも美味い、となれば良いと思う。これは食品だけでなく、ブランドの鞄などでもそうだ。

自分など金が無いから、いつも食料品は一番単価の安いものを選んでしまう、最高の味など知る由も無いが、安いものでも十分美味いと知っているし、値段が高いってだけで不味くなるのだ。

結局日本人の力が落ちてきているが故におきてしまった問題で、各人が自分を磨けば何も問題ないではないか。

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天地無用

天地無用のラベルが付いた小包が配達された。
天地無用とは、簡単に言うと上下逆さまにしてはいけませんと言う意味だが、どうしてそんな意味になるんだろう。天地の理に反して用いる事の無いように。の意味だろうか?

小包の中はタオルが入っていた、これが何故天地無用なんだろう?と考えるに、過大解釈で、贈り物は丁寧に扱え、の意味なんだろうか。
確かに同じような意味でコワレモノと言うのがあるが、タオルに適用するにはかなり苦しい。ならば天地無用だろうか。

しかし箱を持った瞬間に、天地無用でもコワレモノでもない事は分かるだろうし、その表示が順守されたかは分かりようもない。
無用な事など書かずに、無事に届けば良い。

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地面に座り込む人たち

店舗の前に、と言うかほぼコンビニや鉄道関連施設だけど、地面に座っている人たちがいる。

雰囲気が悪くなるという記事をよく目にする。

しかし、例えば遠足で高原の牧場などに行って地面に敷物を広げ、弁当を食べているのを見ても、和やかであれば気分を害さないだろう。山へ入っていって、切り株があれば腰を下ろしてみるし、座れそうな倒木があれば休憩してみる、見晴らしの良い土手があれば座って和んだりする。

地面に座る人を見る事の嫌悪感は、人が地面的なものに座って、ズボンが汚れるのになあって心配する気分の悪さでは無いだろう。

では段差と言う椅子的要素が無いから嫌なのか?

倒木も切り株も、どちらも椅子的要素がある。それで言うならば、コンビニの前のタイヤ止めに座っていても大して変わるまい。

雰囲気が悪くなるのは、人が座っているからだろうか?雰囲気が悪くなるのは、その人の雰囲気が悪いからだろう?じゃあ雰囲気が悪いのは何でだろうと考えると、それはその人が自分とはかなり異質だからだろう、それを認められるか嫌ってなるか、それだけだと思う。嫌だけど無視も出来ない、でも注意も出来ない、そんな自分の弱さも加味されているのだろうか。

自分と異質な、動物や芸人や各種タレントのある人たちに求め、それを楽しい、可笑しいと思えるなら、地面に座っている人だって、面白いと思うのだが。

しかし日本人は、と言って良いかわからないが、だめな物を決めたがるくせに、その対策をしないと思う。

面積的に電車内などは椅子を増やす事は難しいかもしれないけど、コンビニの駐車場などに、一部オープンカフェ的な座れる空間があっても良いと思うし、気軽に休憩できる空間というのを利益追求か、空間確保か知らないが撤去しておきながら文句だけは言う。路上駐車の取締り強化だって、駐車場のシステムが十分でないのにスタートしてしまった感じがある、今は知らないけど。

結局僕は人にあまり関心が無いのか、人がしている事をだめだとは思わないので、だめと言っている人に何で?と言ってしまうのだろうな。

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納豆のたれ

自分はわりと納豆の消費が多いほうだと思う。

銘柄に贔屓の物があるわけでもなく、その時その時に安かった物や、気になった物を適当に物色しているのでいろんな納豆と出会う。

パック入りの納豆は、だいたいがたれとセットになっていて、各商品が趣向を凝らしたたれをつけている。

しかし中には、たれとからしの袋がくっついている物があるのだが、手を汚さずに両方使うのはかなり難易度が高い。

くっついている物の中には、容易に切り離せるようにミシン目が入っている物もあり、好感が持てる。

容器、豆、菌、たれ、など色んな所に気を使って作っているだろうに、何とかならない物だろうか、つながっているほうがコストが安いのだろうか。全く個人的なことだが自分はあまりからしを使わないので、入っていなくても良い。しかしつながっていると、取って置くにも鋏を使ったり、それを拭いたり洗ったり手間がかかる。ならばと使ってしまうのだが、手が汚れる。まあチョチョイと舐めておけば問題ないのだが。

こんなこと書いてよっぽど暇なんだな。

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石油という資源

石油や石炭などというのは、実は秘密のエネルギーであり、本来は扱うべきではなかったのかもしれない。

自分は10年ほど水槽で熱帯魚など飼っていた時期があった。

基本セットとして、「水槽・濾過機・電灯・ヒーター類と餌」が必要だろう。

しかし熱帯魚ではなく、例えばメダカや金魚などではヒーターは要らない。

また、日が入る場所では水温の上昇や発火に問題が無ければ電灯は要らない。

水槽の容積に対して魚の数、浄化能力に十分に余裕があれば濾過機は要らない。

魚に対して微生物の繁殖や、藻の繁殖が十分なら餌は要らない。

水槽だけは陸で魚を飼う以上要るだろう。

魚にとっての水槽は、人間の地球に当たる。ヒーターと電灯は太陽だろうか。餌は要らないと書いたが、普通は餌は人が与える、また濾過機は濾過槽を通る。普通濾過槽に魚はすんでいない。外部濾過、上部濾過なら宇宙、底面ならマントルだろうか。

水槽が地球なら、餌は宇宙から食料が降ってくるのに似ている、また濾過機は地球の汚染物質を宇宙に吸い上げて、ある程度浄化して戻してくれる装置のようだ。

魚が水槽内で生活するというシステムに投じたエネルギー量は、果たして魚の活動量に見合っているんだろうか?一般的な60cm水槽では、18Wの電灯2本、150~200Wのヒーター(常時ではないが)、数W~数十Wの濾過用モーター、さらに餌。

はっきり言ってむ無茶苦茶な世界だと思う。

完璧に循環する世界では、無償で手に入るエネルギー(太陽)によるエネルギーで全てが完結しなくてはいけない。太陽光で植物が育ち、それを食べる草食動物、それを食べる肉食動物、死骸を分解する物、分解した物を吸収する植物という、かなり適当だがこんな感じ。

餌、濾過機なしでも雑食か草食の小魚を飼うのは、比較的易しい。しかし餌の投入なしで肉食魚を飼うのはとたんに敷居が高くなる。小さなものなら1000リットル程度の2m水槽で一・二匹飼う事が出来るだろうか?数十cm以上では一匹飼うのに池が要るだろう。

しかし濾過機のある水槽では60cm水槽で20cm程度の古代魚が数匹居たところで、まあ飼える、水換えという反則技もあるし。

世界の人口が増えだしたのは、石油を使った産業の発展と関係あるだろうか?

それは濾過機を使って、水槽内で飼える魚の数が増えたのと似ているだろうか?

石油は過去の遺産であるから秘密のエネルギーなのだ、現代社会は親の脛をかじって生きているに等しい。その親も今やあと何年生きるか怪しくなってきた。地球は容易に大きくする事は出来ない、ではどうすればいいんだろう。

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スポーツテスト

新聞でスポーツテストの結果が発表された。例年なら過去最低とか、どんどん落ちている雰囲気のコメントが載るのだが、今回は「下げ止まり」であった。40~50代だったかの運動能力は、上昇しているらしい。

自分の学生時代はどれくらいだったかはっきりとは覚えていないが、小2の時の50メートル走が9.9秒で、当時走るのが早い人の代名詞であったカール・ルイスの100メートルの記録と同じであった記憶がある、クラスの中では中の上ぐらいだったかな。また、中1の時のハンドボール投げは16メートルくらいで、クラスでもかなりへぼかったと記憶している。中3では34メートルで2倍以上になったのは印象的。

さて、下げ止まりというのはどういうことだろう。

運動能力が上がるにしても下がるにしても原因がある。運動をすれば上がるだろうが、しなくても日常生活で動くならそれ以下にはならないだろう、だから下がるといっても常識的な限度がある。むしろ上がらないというべきだろうか。

外で遊ぶ機会が減った、家の中でゲームばかりしている、運動のクラブ活動よりも塾などに通う、など運動能力が上がらない原因は良く挙げられる。しかし世の中のスポーツを見てみると、まだ学生の若い選手が大いに活躍しているではないか。オリンピックなどでも昔は大人がやっていると思ったが、今や自分より年上の選手は競技によってはまず見なくなった。

運動能力の低下が言われ始めたのは、たぶん自分の年代からではないだろうか。しかしいまだに記録を塗り替えるような選手はどんどん出てきている。この新聞発表は何が言いたいのだろう、ただ平均を取って成績が下がっている、下げ止まったと言っているだけだろうか。

教育する現場において平均に何の意味があるのだろう。50メートルを10秒で走るA君と、6秒で走るB君がいて2人の平均が8秒であるというのに意味なんて無い。ここに8秒で走るC君が登場したところで、これまた何の意味も無い。人は人、である。子供は自分がクラスの中でどれくらいの位置にいるか知っているだろう。クラスでトップなら陸上を目指すかもしれないし、ビリならスポーツ以外に専念するかもしれない。車の違反で、今年一年の減点が0点の人と6点の人が居て、平均が3点だからなんてのは意味が無いだろう。

教育なんて関係なくただ興味で見るなら、50メートル走なら0.1秒刻みの棒グラフなど載せた上での平均ならば紙面としてもう少し楽しめたと思う。

しかし子供の運動能力が下がったからなんなんだろう?

10年前と比べて50メートル走が平均10秒遅くなったとか壊滅的な低下ならば問題もあろうが微々たる物だ。だいたい先に挙げた、ゲームや塾などに子供を預け、車の販売促進をを盛大に宣伝して、学力低下を叫んでいる。

それとスポーツが出来たほうがメリットがあるなんて事もあるのかどうか怪しい。スポーツが出来る故に運動やレジャー中に死傷する事もある。スポーツ選手は割りと早死にすると思う。逆に子供のころ運動が苦手だった人がタイムを競わないジョギングや散歩などで有意義に体を動かしている事もあるだろう。プロ野球の選手と地域の草野球の選手でレベルは段違いだろうが、どちらが楽しんでいるかと問えばどちらだろう?

下げ止まったのは社会のシステムが一段落して、生活様式が定着したんでしょう。

逆に言えばエコを一番純粋に叫んでる子供たちが、実は大してエコロジーな生活をしているわけでもないという事なんだろうか。まあ今やってるエコは偽りだらけの物らしいので皮肉ですがね。

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連休

ハッピーマンデーとか言うよくわからない決まりのおかげで祝日が月曜日になって、9月から連休が多い。

しかし僕など、お金が無い上に、どこかへ出かけるという習慣も無いので、連休を全く持て余してしまう。

だいたい仕事をしていて、休みが近づくのを一日一日と指折り数える感じがいいのだ、3連休よりも週に3回飛び飛びで休みがあったほうがわくわくする。もっと長期の連休ならまた変わってくるけどね。

今週は、ちょっとしたイベントがあってバタバタしたが、それが人生に大きな影響力を持つかは今はまだわからない。もしかしたら今週の連休は海外旅行に行くよりも、バイクの試験に合格するよりも重大な意味を持つかもしれない、しかしパチンコで負けるくらい意味の無い日であるかもしれないやらないけど

でも結婚や子供が生まれるのに比べたら、大して重要な事でも無い気もする。っていうかそれと比べて重大な事ってなんだろう。相手が悪かったな。

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バイオエタノール

世界では何億人という人が飢えに苦しんでいる。

日本は食料自給率が40%程度らしい、輸入が止まれば日本国内の人口が1億2000万人として単純に考えて7200万人が飢える事になる、日本が他国に弱いのは人が生きるうえで一番大切なものを持っていないのも原因だろうか。

石油が残り少ないから、環境に悪いから食料を燃料にしよう。ってのは要するに飢えてる人に食料を回すくらいなら、燃料にして車に乗ろうぜって事か。それで何十億人か死ねば食料問題解決なのかな。

バイオエタノールは食料が余って余裕があるとこだけ、日本は農業をもっと優遇しなきゃだめだね。草とか海草からでも取れるような記事を新聞で見たけど、デンプンから作るのが簡単だからトウモロコシなんでしょ?草から取れるのは良いけど、エネルギー採算が取れなきゃやる意味無いしね。

病気と暑さや乾燥に強い品種の野菜や稲をを作って、温暖化した世界で人力だけでみんなが農業やれば案外ハッピーなんじゃないかな。

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厚さ? 薄さ?

普通物の厚みを表すときは、厚さ~mmとか言うけど、たまに薄さ~mmという表現を見かける。

その場合、今までの物は厚みがあり、それが改良によって薄くなったと言う意味で、例えばテレビがブラウン管から液晶などに変わり薄くなった時などに見られる。

その他では、重さに対して軽さなど見るような見ないような。

物の大きさや重量を表す時、基準となるのはやはりゼロの状態だと思う。0mmで0gの物に対して、~mmで~gというのが、例えば厚さや高さ~mmで、重さが~gなんだと思う。

厚さに対し薄さ、重さに対し軽さが許されるなら、高さに対して低さ、広さに対し狭さ、強さと弱さ、等他にも沢山あるが置き換え自由なのだろうか?

しかし~坪と狭い我が家とは言うが、狭さ~坪の我が家とは言わない、体重を気にする人は多いが細い人でも軽さ~kgとは言わない。体重はやはり体の重さだからだろうか。

言いたい事はわかるが、具体的な数字が入る物に薄さや軽さというのは、どうも気持ちが悪い。

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いじめ 中日新聞より

僕の好きな日替わりでいろんな人が文章を載せるコーナーが、中日新聞の一面にある。

今日は「あってはならない話」と題して、いじめの問題と教師のあり方についての文章が載っていた。それを読んで僕なりに思った事を書いてみたい。

いじめとは、近年になって新聞や各メディアで取り上げられている印象があるが、それは単に昔は僕がそういったことに興味が無く、近年ようやくそういったものを目にするようになったか、調査が本格化してメディアが取り上げだしたのが近年なのか、その他なのかはよく知らない。

いじめというものは、昔からあったことなんだと思う。極端な話人類に進化する以前、さらには動物の世界でもあるだろうと思う、ただいまそれを言ってもしょうがないので今回はそれには触れず、現実のいじめと言うものについてのみ考えてみる。

「あってはならない物」という題は、教師のいじめ隠しについて書いてあったと思うが、これがいじめは「あってはならない物」であったら、僕は違和感を感じていたと思う。

いじめはあってはならない物であると言う事が、いじめの問題を大きくしていると僕は思っている。いつか書いたが、嫌な事と悪い事は違うのであって、小中学生程度のいじめは本来嫌な事であるが、悪い事ではない気がするのだ。

大人は、日本人は全て人格者で物の分別が出来ると思っているかもしれないが、誤解を恐れず言えば下手すれば中学生程度は、犬や猫とさほど変わらないと思っている、馬鹿にしている訳ではない、そういう段階だと思っている。赤ちゃんに自立しろと言う人はいないだろう、喧しいから泣くなとは言うかもしれないが、それは大人の身勝手な話で彼らは泣く事で懸命に勤めを果たしている。と同じように、小中学生と言うのは、他人をいじめたり、またいじめられたりと言う形を取りながら年相応の勤めを果たしていると思うのだ。

子供は体に対して頭が大きく、バランスが悪くよく転ぶそうだが、この時期は大いに転ぶべきで、それによって得られる事は多いと思う。転んで怪我をするのは痛いし嫌な事だが、悪い事をしているわけではない。これを可哀想だからと補助機をつけたり、常に手を引いて歩いたり、または転んだのを(管理者側に重大な過失でもない限り)環境のせいにするのは全く愚かな事なのだ。

悪いことと認定されてしまうと、必ず隠れてやる事になる。車のスピード違反を取り締まるのは警察だが、その目の届かないところで制限速度以内で走っている車など、まず見かける事は無い。現行犯でなくて良いならば、警察は運転手のほぼ全員の免許を取り消しにすることが出来ると思う。

いじめを無くそうと思うのでは無く、あるべきものなのだと思わなくてはいけない。

ではどうあるべきか、それは出来る限り攻撃力の小さな低年齢でのいじめや喧嘩を賞賛し、また陰湿化させないようもっとオープンであるべきだ。いじめた方もいじめられた方もきっと心に何らかの傷を負うだろうが、それは人として成長する上で必要なものなのだ。

結局根本的な事を見過ごし、場当たり的な処置を続けたために、年齢を重ねても大人になれない人間がより大きな問題を起こすのだ。

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エスカレーターの事故

サンダルでエスカレーターに乗って、足や紐が挟まれたという事件が何件かあるらしい。

こういうとき、よくエスカレーター側の改良や問題を指摘されるが、やはり使用する側が愚か過ぎるという部分をもっとも問題視するべきだろう。似たような事件でエレベーターの事件があるが、あれとは全く違うレベルの話で、あれはエレベーターの完全な落ち度であろう。どちらかと言えば靴つながりで、厚底サンダルやブーツで車を運転しておきた事故に近いものであろう。

近年履物がメーカーの努力により進化したり、より自分の足に合うオーダーメイトの物等が一般的になったり見直されている一方で、ファッション的な要素が重視され、本来の履物としての機能がなおざりにされた物もよく見かける。

靴を作るメーカーは、最低限の歩行性能の基準を持って靴を作ってほしいし、靴を選ぶほうは、通販などで選ばずに、履いて確かめてから自分の足に合ったものを買う事や、用途に応じた選択をしてほしい。

自分は一本足の高下駄を持っているが、それで町に繰り出そうとは思わない、せいぜい夜の散歩や友人と遊んでいるときくらいだ。

製品としてまともなものを購入して、それを正しく使いたいものだ。

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20070902

9月に入って、今日は晴天ではないけれどすっかり涼しくなった。

僕が季節を感じるのは、風呂でシャワーを浴びたときに、常温の水が冷たくなくなったら夏の到来、冷たいと感じたらもう夏も終わりである。

植物にとっても夏の日差しは強くて、決して成長期ではない。ようやく家のサルナシも自分が蔓系だということを自覚したのか、スルスルと枝を伸ばし始めた。しかし冬はまもなく到来、今年は温室を早めに作り出そう。

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寿命について

生き物には短長の違いはあるが、寿命というものがある。

日本人の平均寿命というのは、男女で違うが80歳前後で世界的にもトップクラスだ。

しかし動物としてみた場合、人間本来の寿命というのはもっと短く設定されているのがわかる、と言うのは健康的に人生を全うする人は極稀であるからだ。

例えば、歯が無くなった動物は、自然界では生きてはいけまい。人間の歯は僅か数年で乳歯から永久歯へと生え変わり始め、それ以降はほかの動物で見られるような新しい歯が生えてくるわけでもない。歯だけで見ても、60歳くらいには大多数の人が大小の差はあれど問題を抱えていると思う、総入れ歯なら確実に死んでいる。

本来の寿命というのは、癌でも何でも良いが、生命に関する症状が出始めるリスクが急激に増える年代というのが、その種の平均的な寿命といえるだろう。

「近年若年層にも生活習慣病が」という記事を目にする、成人病という名前がついていたから、以前は子供は検査の対象に無く、昔からあったことなのかも知れないが、どっちにしても若年にして病死の予備軍である。医療をすべて無しにしたとき、動物としての人間の平均寿命は延びているんだろうか?ちょっと気になった。

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アポロは月へ行っていなかった。

今更って感じなんでしょうが、僕は今日初めてこのニュースというか企画を知って、ちょっとびっくりしました。まあ結局はおもしろ企画で、そのとき月に置いてきた物もあるし、嘘なんだけど話としては面白い。

いろんなテレビ番組などで、ちょっとだけ知られていないことが、雑学として紹介されるようになって、日本人はより広く浅い知識を身につけるようになった。ちょっと知ってることには、興味を持ちやすいので脳内のいろんな単語が次々にリンクされて行く。

しかし結局は浅い知識だけなので、それが正しい情報か嘘の情報なのかは、判断が出来ない。専門家という人が出てきて一言放てば、それは正しい知識として関連付けがされてしまう。そしてそれが単なる一言でなく、その根拠や、証拠が出てくればいっそう信頼は強固になるが、やはりその根拠や証拠が正しいかどうかも理解できないが、自分が判断できる限り違和感がなければ正しいと感じてしまう。

「鯨統一郎」という作家が書く本によくこういった話があって、読むたびにこの人は真相を知っているんではないか、真相を究明したのか!と思ってしまうのだが、ちゃんと知識がある人から見れば、他愛無いこじ付けに過ぎないと思えるだろう。

世の中実害のある政治や悪徳業者の罠も多いが、こういったユーモアのある話には一喜一憂しているくらいの方が、一般人としては楽しみが多いと思う。

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拘りという言葉にこだわってみる

拘りという言葉が世間でよく使われている。「拘りの一品」「拘りの味」などだ。しかし本来拘りという言葉は、つまらないものに執着している様子を表すような、あまり良い意味で使う事の無い言葉だそうだ。

しかしこの言葉を聞かない日は無いくらい、よく使われているし、なんなら自分でもふと使ってしまい、後悔をするのだ。

何でこの言葉がこんな使われ方になったんだろう、そしてこれに代わる言葉はなんだろう。ふと思ったのは、最初は謙譲語的表現であったんではないだろうかということだ。

弊社とか、小生のように自分をへりくだって言う言葉をしばし使うが、拘るというのも、最初は店主なりが自社の商品や製品に対して使っていたんではないだろうか。しかしそれがいつの間にか、分別のわからない人が耳にし使い出したのだろうか。

葬式の席などで、大往生という言葉が出ることがあるが、これは本来身内のみが使う事が出来る言葉で、他人が勝手に言うべき事ではないし失礼な事だが、それと同じことになってしまっているのではないか。

取材などで、気軽に「拘りは?」などと聞くのはたぶん失礼な事だ。やはり、「気配り、配慮、心配り」などを使って質問すべきだろう、答える側は、拘りでも何でも使って答えれば良い。

リポーターもきっとん入社の際に書いた履歴書では「貴社」や「御社」という言葉を使っただろうに、拘りでは「弊社」言ってるようなものだ。

拘りに対して拘りだすと気になってしょうがない。

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原爆投下をどうみるか

原爆の投下によって、広島・長崎で計約21万人の方が命を落とされ、また後遺症など残る方も、まだ十分な対応が出来てるとは言い難いのが現状のようだ。

そしてこの被害の悲しみ、怒りを後世に伝えていかなくてはならないと、多くのテレビで語られている。しかしここで僕が思うのは、伝える事は必要な事なのか、不必要な事なのかは、どちらが正しいかはわからないという事だ。

僕の両親は戦後の生まれで、戦後の物不足は経験しているだろうが、直接は戦争を体験していない。そして僕はファミコン世代である。戦争のせの字も経験しておらず、戦争というものを自分から求めなければ触れる機会も無く、無関心の人がいてもおかしくは無い。

戦争に全く興味が無く、また戦争をしようと思う事は無いだろう人に、戦争の悲惨さ・怒り・などを伝える事は、殺人の手口を詳細に伝えるニュース番組のように、興味を持つ人がいてもおかしくないのだ。

今から450年ほど前、かの有名な桶狭間の戦いがあったころである。日本各地は群雄が割拠し、各地で戦があり波乱の時代であったかもしれないが、現代その恨みを引きずっている人はいないように思える。むしろ江戸時代の遊びの文化によって脚色され伝えられている、戦国時代というものを娯楽として捉えているのが現状ではないだろうか。

日本は戦争で負けて、非戦争国になったが、アメリカは勝った事によって、いまだに戦争大好きで、やられたらやり返す報復の精神が旺盛である。

怒りや恨みを持って、それを抑える事が本当の幸せだろうか、戦争というものを知らない全く無垢な状態が本当の幸せだと思う。

マヤ文明のように、そのために海外の軍事力に屈してしまうかもしれないが、平和とはそういうものだろう。それが受け入れ難いならアメリカ的思想で、悪い国は全部正すくらいの意気込みのほうが健全だろう。もっともアメリカ政府の思想が一番腐ってる可能性もあるけど。

世界大戦をゲームにしてしまっている光栄が一番健全な方向を向いているんじゃないだろうか。

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偏光サングラス

昨日は、夕方から猛烈な雨と落雷の連発で一時停電になりました。一応パソコンの電源を落としておいて良かった。停電は早々に復帰したんで、冷凍庫のアイスも無事でたいした被害は無かったですがね。

今日は一転猛烈な暑さ。暑くて車のハンドルが握れません、しょうが無いので飲料用の水(水道水)をタオルに含ませハンドルを冷やしてから運転。

眼鏡屋赤札堂にて父親用の偏光サングラス(2980円)を購入。

偏光サングラスは、普通のサングラスほど暗くならないのにまぶしさがカットできるので気に入ってます。

小学生か中学生の理科で、2枚組のガラスの一方を回転させると、真っ暗になったり明るくなったりってのがあったけど、あれとおんなじ原理だろうか。光の波で縦波とか横波とか知らないけど、どれかをカットするように出来てるんでしょうかね、偏光サングラスをかけて顔を倒すと液晶の表示が明るくなったり暗くなったりします。

車の運転時ダッシュボードがフロントガラスに映り込んだり、他車のガラスの反射がまぶしくて、運転手の様子が見難いなど解消されるし、景色の輪郭線がくっきり見えます。

水面の反射は極多少抑えられる気がするけど、偏光サングラスをかけたらいきなり水中の魚が見えるほどの効果は無い気がします過度の期待はいけないですね、かけないよりは見やすい程度かな。

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就職

4時間くらい前、近所の㈱***にメールを出した。

3時間くらい前に面接に来てくださいと電話で連絡があった。

これが就職活動なのか?っていうか以前の仕事もタウンページで調べて電話して、今の仕事は人のコネ、今回はメール、自分は苦労してないな。

電話の内容では盆明けすぐにでも働いてもらいたいとか。ずっと興味があった業種なんで合格できるといいな。これに合格すると有限会社、株式会社、公務員を制覇ですよ、案外渡り歩いてるな。

結婚に一歩近づくかな。

履歴書書くの始めてかも。免許いつ取ったかなんて全部は覚えてないよ。

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常識だと思っていること

なんでもリサイクルすることは環境にいいとか、植物はCO2を吸収するから環境に良いとか。環境以外でもいろいろあるが、テレビなどで繰り返される、直接的には無料で手に入る情報は、大概が半分は嘘だと僕は思っている。

結局世の中を動かしているのは、お金の流れであり、テレビはスポンサーの悪口は言えないし、世間は政治家や悪人は叩くが、善人面した、もしくは心から善意でしている悪事を叩くことはない。

今の世の中、悪いことをしていなくても、悪いことはある。

たとえば、家族のために一生懸命食器洗いや、洗濯などをしてくれる母も、しっかりと洗剤を垂れ流し環境破壊をしている。

まじめに働いている社員でも、それが果たして役に立っているんだろうか、いや会社の利益、自分の収益には貢献しているかもしれないが、問題はその会社自体の存在価値があるかどうかが疑問だ。安物買いの銭失いのような製品を作り続ける会社や、環境破壊を促進させるためにあるようなリサイクル企業。

もっと言えば、環境の破壊を悪としてみた場合、産業革命以後の機関や電力を用いた活動全てが悪である。

日本で言えば江戸時代までは、ほぼすべて太陽のエネルギーだけで生活が出来ていた。それは光合成をする植物などを底辺とした、ピラミッドの頂点に人がいて、人が樹木を消費するのも、動物が木の皮を食べるのもさほど意味としての違いはなかったと思う。

しかし現在人はそのピラミッドのどの位置にも居らず、不完全な人工ピラミッドを築いてしまっている、その歪が近年の問題だろう。

しかし動き出してしまった大きな歪みは早々止められまい、一回楽を覚えてしまったらなかなかそれを捨てることは難しい。結局何もしないでいいのだ、石油がなくなれば今の生活を改めざるを得ないし、それによって人が何十億人死ぬかもしれないけど、絶滅しないかもしれない。

自然界の動植物は、買ってきた観葉植物のように、無理やり生かされてるわけじゃなく、その地に適応して生きるべくして生きている。今後地球がどうなろうと適応できたものが生き残れば未来はある。進化論が正しいなら何が生き残ったって大して変わらない。

死ぬ時を逃した老人が無理やり生きながらえさせられ、それを介護だ、医療だと言う。税金を取られるときは散々文句を言うが、それが下らない医療に使われていても、命のこととなると何も言わない、医者のやっていることの半分は必要ない。人は死ぬことが自然な状態なのだ、皆が80まで生きなければ残念だと言うわけでもない。若いときはあんなに良い人だったのに年をとってからは・・・と悪口を言われ厄介者にされあの時癌が治らなければ、って事もあろう。今は死に時ってのは大切なことだと言う常識がない、みんながみんな長生き=善い事、だ。

僕は、みのもんた・堺正章・古舘伊知郎、嫌いなんだよね。

一気に世界が変わる方法がある。

食糧の輸入や売買を一切禁止して、食べれる農家の人だけが生き残る、結局そんなけしか生きていけないんだよ。あ~僕は死ぬな。

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レクサスマーク

レクサスマークを付けたムーブ・ラテがいた。

ムーブ・ラテはかわいい。しかしなぜ付けてしまったんだろう?セルシオとかハリアーとかの、なんちゃってレクサスや、商業車の汚いハイエースでおもしろとか、たまに見かけるけど、外観はマフラーもタイヤも特に無改造っぽいムーブ・ラテ色はおとなしい肌色、でレクサスマーク、印象には残るが自分でやるには恥ずかしい。

架空のメーカーのマーク作って車に張っとこうかな。

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何食も食べるダイエット

ダイエット今や多くの人がする行為であり、僕も自分の体重を見てそれをしなければと思い立った。

しかしそもそも肥満と言うのは、遺伝子に組み込まれたもので、少ししか食べていないのに太る人もいれば、たくさん食べても太らない人もいる。結局はその人の本来あるべき体重に落ち着くと言うのが本当らしい。

しかしそんなことを言っていては、やせる事をあきらめざるを得ないので、この際そんな知識は封印するのである。目標体重は、高校時代の一番動けていた体重、55kg前後を目指したい。

スポーツをする上で、必要以上に脂肪が着いているというのは、あまり好ましい結果がでない、別に何かの大会に出たり、人と競うこともないけど自分で動けなくなったと感じるのがやはりつらい。

別に体重を落として健康になりたいわけでもないし、スポーツを健康のためにしたいわけでもない、と言うかダイエットをすることやスポーツをすることが健康に良いなんてのは、幻想であり、その手の産業に踊らされていると言わざるを得ない、僕は長生きがしたいわけじゃない、楽しく運動が出来て、充実した日々が送れるなら、その結果早死にしても満足じゃないか、ただただ長生きを望む人の気が知れない。桜の花見に行ったりして、「散り方が良い」何て言ったりするが、枯れても花を落とさない薔薇でも見てればいい。

話がつい脱線してしまう。

遺伝子的にどうあれ、やせるためには少なくても、

摂取カロリー≦消費カロリー

でなくてはいけないだろう。

また脂肪が付きやすいと言うことは、体が飢饉などに備えていると言うことで、食事の回数が減ればより蓄えようとしてしまう。

逆に今が飽食の時代で、食料はいつでも食べられる、体に蓄えておく必要は無いと体に認識させればいいのだ。

ということで、僕のダイエットは、一日に何食も食べるダイエットです。

やり方は簡単、朝は普通に食べる、昼の弁当を10時12時15時などに小分けして食べる、夕飯は19時までに食べて、寝る前は食べない。で、お菓子は控える。

食事の内容としては、肉やフライなど油もの控えめ、ご飯のおかずは肉じゃなくて、納豆とかふりかけとか。サラダとかマヨネーズなんかかけるのは最悪なんで、ノンオイルドレッシングでおいしくたべます。

ポイントは一日の総カロリーはそんなに少なくなってない事。

空腹感を感じないように、小分けして食べることです。スポーツをする体を作りたいので、筋力が落ちては元も子もない、普段大量に食べてる肉とお菓子を普通の量に減らせばカロリー的にはクリアーでしょう。

お菓子やアイスはつい食べたくなります、我慢してはいけません食べましょう、ストレスを感じては辛いです。ただ、味を楽しむものと割り切って、アイスなどスプーン一杯程度、お菓子も一つまみくらいでやめておいたほうがいいでしょう、たくさん食べても少しでも味は一緒です。

あと夏と言えどもエアコンは使いません。エアコンを使うと動く気力がなくなります、体調が良いときは真夏の炎天下でも、暖かく感じて気分が良いです、干したばかりのふわふわの布団で寝ている感じです。

筋トレを適度にすると、生活にメリハリが出て、自分が今ダイエット中だという自覚が生まれ、お菓子を我慢するようになります、我慢できなくなったら寝ます。

筋トレによる消費カロリーなんてたかが知れてます、筋肉が付けば基礎代謝があがるそうですが、筋肉が付くのは数ヵ月後でしょう。活性化はすぐするけど なのであくまで気分転換程度、僕はスポーツのパフォーマンスを上げたいのでそれなりの運動しますが、極端に重いものは使いません、僕のやるスポーツは重量挙げではないですから。走る競技なら走るし、飛ぶ競技なら飛ぶ、蹴る競技なら蹴るのが最適な運動でしょう。ボディービルダーでも鍬を使わせたら日常的に使っている老人にも及びません、無駄な筋肉は必要ないです。

このダイエット法は、はっきり言って極端にやせませんが、1ヶ月に1kg前後落とせれば良いと思っています。ただよく動く体は手に入ります。

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25万坪 

あるメーカーのペットボトルの記事に、

「水源の自然なままの環境を守るために、水源地の周囲約25万坪(東京ドーム64個分)にも及ぶ森林を保全。そこにグリーンキーパーを置いて木々の育成を監視するといった、環境保護の活動に取り組んでいます」

という文章があった。

単純な疑問として、何で水源地の森林の面積が「坪」で表してあるんだろう?

坪なんてのは、住宅用のせいぜい何百坪とか位の狭い物を表す単位では無いだろうか、もっと大きな面積ならhaとか畝とか町とか、わかりにくいならk㎡を使えばいい。

では25万坪とはどれぐらい広大な面積なんだろう。カッコ書きであるように、東京ドーム64個分らしいが、普通人は64倍と言うものを想像できないと思う、出来るのはお金など数字化されているものくらいだろう。

25万坪で検索すると、それは東京ディズニーランドと同じ大きさらしい、またk㎡で表すと0.91k㎡程度らしい。ようは910m×910mでしかない。

その面積で水源保護にどれほどの影響があるかはわからないが、大きくてよくわからない数字を持ち出してくるところに、何か作為的なものを感じてしまう、確かに0.91k㎡ではまったくインパクトが無い、しかし正確に伝えたいならそれでなくてはいけないだろう。

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問題発言の前に

しょうがないといった人が、問題になっていたがそのことで。

僕はいつも問題発言した人を擁護する形になってしまう、そういう気持ちは無いのだが、それを問題発言だとあおっている人種がもっと嫌いなんでしょうがないでしょう。

疑問があるのだが、この発言を受けて怒っている日本人はなぜアメリカに報復に行かないのだろう。問題発言は許せないか知れないが、一番の問題は発言した日本人ではなくて、その行為をしたアメリカ人なのだ。

諺に「人を呪わば穴二つ掘れ」と言うものがあるが、「鬼畜米英」と言って戦争をしていた日本人がいたはずだ。戦争と言うのは、話し合いでどうにもならなかったから起こるもので、人を殺してはいけないと言う法律を超えた存在なのだ。日本ははたして外国勢力の侵略から必死に日本列島を守りぬく戦い方をしていただろうか?

その最終的な形がどんなものであれ、結果は甘んじて受けなくてはならないだろう。

マスコミはつまらないことを取り上げていないで、有益な情報を発信してほしい。

パットン大戦車軍団のパットンは問題発言が多かったけど、兵士には支持されていたようで、政治家も問題発言が出ようが国を良くできればいいと思うが。まあ能力が無いなら問題外。

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車椅子マーク

Kurumaisu

いつの間にかいろんなところで見かけるようになったマークだが、安直に車椅子マークで良いんですね。

駐車場などでは車椅子と言う狭義な捉え方ではなく、たまたま骨折した人なども適用されると思いますが。しかし何でこんなことを書くかと言うのは、ふと乗ったエレベーターで見て偶然記憶に残ったんです。

最近建てられる高層の集合住宅や、ビルなんかには、配慮と言うか売るためのアピールと言うか、法律が有るからしょうがないのか、車椅子マークをよく見かけますが、エレベーターに付いていて違和感を感じたので。

古い物では扉のどちらかの脇に操作盤が縦長に付いていますが、最近のエレベーターではそれに加えて両サイドの低い部分に横長の操作盤が付いていたりします。それでそこに車椅子マークが付いているんですが、そこにこのマークが必要なのか疑問があったんです。

駐車場などと違いマークが有るから健常者の使用は避けるべき類ではないのでマークが付いている事に問題は無いのだけど、無くてもいいと思って。セが小さい子供などは健常であっても低いほうが使いやすいだろうし、要は操作盤を多数用意して使いやすいところの物を使えばいいのだ、マークが有ることが実に恩着せがましいと言うか。

こういうことは世の中には沢山有ると思うんだけど、供給側がアピールしている事ってのは利用者へのサービスの他に何か有るんだろうな。

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仕事のスタイル

仕事のやり方は人それぞれで、職種によっても異なるだろう。

僕場合、今目の前に有る仕事は全て責任を持ってやってしまいたい、片付けてしまった方が気分がいいようだ。もちろんそれをすると仕事量も増えるし大変なのだが、そこでいったん明確な区切りができる事で、それを達成しようと言う意欲が出る。

しかし逆に時間で計算して、例えば朝から昼までならこれくらいだろうと仕事を選んでしまうと、とたんに怠けるのだ。もちろん請け負った分は時間までにこなすが、きっともっと沢山仕事を請け負ってもやる気があれば出来るはずなのだ。

それはやり切ると言う未知の難題に対しても克服してやろうと言う強い意思と、出切るだけでやろうという、やや甘えた計算をしていると言うその時点で既にモチベーションがかなり違うのだ。

人は留まろうとしていては徐々に退化してしまう生き物なんではないか、常に少しの挑戦をしてはじめて維持が出来、冒険をして始めて成長するくらいだろうか。

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おもてなしの心

おもてなしの心と言う言葉がある車の紹介文に良く出てくるが、一千万以上の車で豪華な内装、確かに快適ではあるかも知れないが、はたしてそこにおもてなしの心が有るのか疑問である。

例えば豪華な応接間に通されて、お茶の一杯も出ずで、はたしておもてなしの心が有るといえるだろうか。所詮ただの車におもてなしの心が有るとは思えない、書いてて何を当たり前な事をと思ってしまうのだが、そう書いて有るから仕方ないじゃない。小奇麗な喫茶店に入ってコーヒーを一杯飲んだほうがはるかにおもてなしの心が有るってもんだ。

近年昔の日本は良かったと、和風物が見直されているが、これが商品に付くとろくなもんではない。

昔の日本は良かったと言う先入観→そのような類の言葉を冠した商品→良い商品、と言う刷り込みだろうか。

うたい文句をつけるなら、本当に相応しいものが出来てからにしてほしい。

後もてなされている側の運転マナーが最悪なのは皮肉、高級車を売る側は人間性のテストをしてから売ってほしい。

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電気にも音があるんです   というCM

「電気にも音があるんです」と言う言葉で始まったこのCM、

そしてカツカツと言う音が聞こえてきて、それは作業員が作業をする音だと言い始める。

それって電気の音か?

そんな事言ったら僕は全ての物に音をつけられると思う。

何かの音と言うならば、その物が出す音で無ければやはり違和感がある、静電気がパチパチと鳴ったり、高電圧でジジジと鳴っていたり。

そしてその後歌が流れて終わるのだが、冒頭の裏切られた感が強すぎてよく覚えていない。

意表をつくと言うのは、お笑いや芸術的分野では無くてはならないことだけど、誠実さが売りの企業のコマーシャルでは、もう少しまじめに印象付ける方法は無かったんだろうか。

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記事100個目とコメント

同時にアップした97~99個目の記事のうち一つについにコメントがついた。それを100個目の記事とすることはきりが良い。

ネット通販の盆栽は高いなあと言う感じだったんだが、いたく真剣なコメントが付いて嬉しい限りです。

まあ若干の反論というかをしておくと、僕は何十年、いや数年でも手塩にかけた盆栽に高い安いの値段なんてつけられないと思っています、自分が良いと思えば安いし、悪いと思えば名作でも高いと思いますし、もちろん自分の経済的な問題も大きく関係します。

植物も動物も値段が安いと言うだけで選ぶべきものではないと僕も感じています。安くても病気があったりで弱っていれば、結局高い買い物になることはよくあります。

しかし、今回僕が苦言を申したのは、広く流通するメーカーの苗木のような物の値段が高いなあと言うことです。普通の店舗では380円で購入したものが、ネットで育て方を調べていると、数倍の値段が付いているのを見ました。

もちろん同じ樹種と言うだけではなく、同じときに同時に全国に出荷されたような、同級生的なものがです。それもまだ挿し木か実生の1年生程度の超若木。

僕が言いたかったのは、ネットで珍しいものを購入するのもいいけど、ちょっとしたおしゃれ盆栽がほしいと思ってるような、普段土も触らないような人でも、やはり園芸店などに行って直に植物に触れて、自分の少しでも気に入ったものを選ぶべきじゃないかと思ったわけです。ネットで「盆栽 通販」などと検索しても多数出ますが、園芸店に行けば盆栽と限らず、多数の花や、野菜の苗、庭木、サボテン、種、鉢、いろんなものを手に取れます。

ちゃんと育てたい植物や動物は直に見て触れて購入するほうが、いいなあと思ったわけです。

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無題

人は他人をもっと認めなくてはいけない。

自分が全て正しいと思っていては失敗するのだ、訳が判らないことをしているように見える他人も、その人にとってはきっと意味のある行動だ、訳がわからないんじゃなくて、自分がわからないだけだ。

人のことを言うときは、理解しようとしなくてはいけない。

「理解に苦しむ」の様な事をいうのは、その人と自分は違うと遠ざけているからだ。

犯罪者の心理を探るのに、理解に苦しむでは放棄してしまっている。

僕は多くの、自分は正しい、潔白だと言わんばかりのニュースキャスターが嫌いだ。

専門家でなくても良い、自分の意見があるはずだ。

僕は出来ないと言う事が嫌いだ、不可能という事は、常に過去形で語らなければだめなのだ、まずやってみなくては。

リスクを負ってまでやる価値がないと思う事はやらなくて良い、そう思っているならば得るものはすくないだろう、ほかの事をやるべきだ。

完璧な正解じゃなくても、結果的に正解に近いところにいればいいと思っている。完璧なものには得るものがすくない、結果をとことん追うプロならば完璧を追求するべきだろうが、そんな事はごく限られた人の、ごく限られたケースだと思う。

完璧という最短距離よりも、少し遠回りして試行錯誤した結果が、正解に近いとは実に良い事だと思う。結果失敗であっても、遠回りした分得るものは多かったと思う。

いろんなことを考えると、関係なかった事同士がある時関係を持ち出す。離れていると思ったジグソーパズルのピースが、実は間に一つはまっただけで、つながるようなものだ。

人の事が理解できないのは、自分の中でまだ開拓されていない範囲があるからだ。

僕は未だ人を殺した事はないけれど、虫を殺した事はある。殺すという行為は日常にあふれているのだ、人を殺す人の気持ちが理解できないはずが無い。

ついやってしまう事は無いだろうか?金があるときは買い物したくなったりする、しかし金が無いのにやめられない人も多い。制限速度より早いスピードで走っているのは知っていても、スピードを緩めたりはしない。

犯罪者よりも善人の心理が理解できない人のが多いだろうに。

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社名

ラジオで、

「長~い漢字の名前の社名を英語の頭文字をとってスッキリ」

とかまあそんな感じのものを聴いた。

確かに漢字の名前は、画数も多く硬いイメージを受けるかもしれない、しかしそれを英語の頭文字をとって並べてなんとなく響きのいいものを作って、「すっきりしました」なんてのはどうかと思う。

また、何か一つ一つのアルファバットには複数の意味がありまして、見たいな説明を受ける事があるが、そんな物は説明があって初めて判る事で、何ならその全てをののしりの言葉にする事も出来るかもしれない。

要するにスッキリしただけで意味は完全に抜け落ちてしまったわけだ、となればそれは名前と言うよりは何かの記号に過ぎないのでは無いだろうか。

名前と言う言語を用いたものでなくても、何かのマーク、果物屋ならバナナのマークとかで良い。

逆に言えば一文字にいくつもよい意味の言葉を並べて、逆に怪しいと言うか名前負けしてるんじゃないだろうかとか、嫌らしい見方をしてしまう。下手をすると社員すら正式に意味を知らなかったりしないだろうか。また、意味を知っていてもその名を名乗るたびにその意味を思い出すだろうか、自分の名乗った声を自分が聞いてその社員としての自覚が出ると言うこともあろう。

しかし社名の意味がわからない、もしくは連想に手間がかかるようでは意識の強化は無いだろう。

例えば「中部電力です」と名乗りながら何軒もの家を訪問すれば、仮に偽者だろうとそれらしくなっていくと思っている。

名前と言うのは客にわかりやすく、社員の心に響く物でなければいけないな。もっとも英語の造語だろうと、語感から連想できる物や、雰囲気が伝わる良い物もあると思う。

流行だからと、根本的に理解して無いセンスの無い人間が安易に真似をしてはいけないと言うべきか。

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車検 2年って早いな。

新車以外では2年に一回と言うのは、まあ一般的な車ではごく当然だが、あっという間というか、また車検かと言う印象がある。

もっとも僕の乗ってる車も、僕が免許を取ってからずっと乗っている車なんで、同じように年をとり、中古で買って家に来てからもうじき10年を迎えようとしている、前のオーナーを入れると13年だろうか。

さすがに車検のたびにいろんなものの交換に迫られる、消耗品はしょうがないな。今回はブレーキ周りをずいぶん交換、周りって言うのはパッドやキャリパー、ローターなんかメインの部品は交換しないってこと、その辺は自分で何とかする。

以前入手したステンメッシュのブレーキホースを、かれこれ4年くらい装着せずにいたが、純正の劣化に伴い交換することにした。ディーラーがやってくれるんだから粋な計らいだ。

代車が出たんで今日からそれに乗っているが、実に快適。

車高が高く見晴らしが良い、音が静か、ドアが4枚あって使い勝手が良い、段差でバンパーマフラーを気にしないで良い、どこか壊れているんではと心配が無い。

自分の車は上記のことにすべて反した、事故+改造クーペなんでたまには違う車も新鮮だ。まあ代車は軽で中でも最安グレードなんだろうが、小さい車ってのも楽しい。と言いながらも今の自分の車はぼろくても車検を通すくらいだから、愛着がある。

しかし方や13年前の自分の車、方や新車に近い代車、これをパソコンの世界と比べると車の進歩っていったい?と思ってしまう。

僕が12年前に買ったNECのPC-9821Ce2と言うパソコンのスペックは記憶にある限り、CPUは25Mhz、メモリ5.5MB、HDD170MB位だった、買値は24万くらいだっただろうか。

今の10万円程度のパソコンが、CPU100倍、メモリ100倍、HDD1000倍になっていると思うと、確かに衝突安全性とか快適装備とか排ガス問題とか少し向上したかもしれないけど、大して変わらない気がする。

今乗ってる車が本当に走らなくなるまでに、手が届かない価格であっても市販車で今までとは明らかに違う、例えばタイヤの無い車とか、そこまで行かなくても、せめてウィンウィン動くワイパーの無い車くらい出るだろうか心配だ、ほしい車が無い。

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レジ袋有料化の賛否

レジ袋を有料にするということでいろんな記事を見る。

大手スーパーが有料化を決めたことや、佐渡市が一律料金で待ったがかかったことなどのほか、いろいろな投稿などだ。

値段は一枚5円程度の設定が一般的のようだ。

はじめに言っておくと、僕はどちらに転んでもいいと思っている。

とりあえずよくありそうな例を3つ挙げてコメントを付けてみたい。

1.レジ袋をゴミ袋等ととして使うというもの。

レジ袋がなければ市販のゴミ袋を使えばいいじゃないか。何の問題があるのだろうか、これを理由に反対している意味がわからない。

レジ袋をゴミ袋として使うのならば、ゴミ袋をレジ袋に使ってからゴミ袋に使ってもいいはずだ、別にビニール袋でなくても他にも布だろうが木箱だろうが籐のかごだろうがなんでも買い物に使えばいいのだ。

結局この理由で反対してる人間は、今までの生活に慣れきっていて、変化に対応できない人間だということだ。

だいたい有料化といっているだけで、配らないといってるわけではないんでしょ?だったらお金を出してレジ袋をもらえばいいではないか。お金を払うといっても一枚5円だ、毎日3枚買っても年間5500円でしかない、逆に袋3枚に及ぶ買い物はスーパーで言ったら結構な量になると思う。

現在は我が家でもレジ袋はゴミ袋として活躍しているが、考えてみれば全てのものを袋に詰めて帰ってくるとして、ごみがそれ以上に出ることなどありえないのだ、レジ袋は必ず余ってるはずなのだ。

どうしてもゴミ袋がほしければ買えばいいのだ、自分が出したごみを分別して収集できる状態にするくらいは責任を取りたいものだ。

2.トレーや包装などが無駄だというもの。

全くもっともな話である、だからといってレジ袋有料化とは何の関係もない話だ。

しかしこれはごみを減らそうという意見なので、むしろ有料化に賛成派の意見なのかといえばそうでもなく、反対派がこれを言っているのが面白い。

レジ袋有料化という当面の敵をうやむやにするために、代わりの敵を作っておこうというものだろうか。

トレーや包装が廃止になれば、肉や魚は山になっているところから自分でとる方式か、重さを量ってもらって買う方式だろうか、現在でもどちらもあるのでそれほど不便ではないかも知れないが、そのままでは行列ができそうだ。

さらに包装が無駄だといっているのだから、店側は測って値段は付けてくれるが、包んではくれないのだ、自分で保冷バック等にタッパーなど入れて持参しなくてはいけないな。

トレーなどを否定するというのはそういうことで、不便さはレジ袋の有料化の比ではないとは思うが、昔はこんな感じだったと思う、出来ないことはない

3.便利だからこのまま無料で良いというのもある。

この取り組みは、決して便利を追求したものではないのだ。

便利を追求した結果が、現在の環境破壊や、資源の枯渇つながっているので、少し不便だが環境のために何かしましょう、だと思う。

無料がいいとか、無料でいいとか駄々をこねてる場合じゃないのだ、結局払えということなのだ。

最初に言ったけど僕はどっちでもいいのだ、5円くらいだったら必要なら払うし、もっともっと高くなってコリャもう払えねぇってなったら必ず袋持参で行きます。

ただ大してセンスがいいわけでもない、持ちやすいわけでもないビニール袋に肉や野菜を入れて持ってるよりも、自分がセンスいいと思う使いやすい袋で買い物してるほうがよっぽどカッコいいしスマートだとは思う。

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便利快適だけど何も変わらない

家の中は電化製品がたくさんある。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、エアコン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

乗り物もたくさん。

車、電車、飛行機、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

昔はなかった、200年前は江戸時代。

でも人は数万年前からずっと生き続けている。

テレビは面白い番組を作ってくれるものではない、遠く離れた場所のものを見るだけで、今僕の目の前に面白いことがあれば事足りる。

冷蔵庫は食べ物が出てくる箱ではない、毎日食べ物を売りに来てくれれば困らない。

洗濯機は無駄が多い、パンツとシャツを洗うだけなら手洗いで十分、今は洗濯物が多すぎる。

掃除機は勝手に掃除をしてくれない、箒で掃いたほうが案外早いものだ、また平面以外では使いにくい。

エアコンは必要ない、暑いときに寒くして、寒いときに暑くする、天邪鬼な機械だ。使う人に日本の四季の賛辞を語る資格はない。

車も電車も飛行機も遠くにいける、でも近くに何でもあれば必要ない。

遠くに早く行くことのメリットてなんだ?

気の合う仲間と一緒で楽しいならそこが何処でも同じだろうし、時間がかかれば長く一緒にいられるのに。

国は乗り物を売るために、遠くに用事を作っているようだ。

確かに電化製品で金と時間は手にしたが、結局その使い道がない、くだらないものを時間をかけて買いに行って、残ったものは環境破壊だけなのだ。

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被災地と支援物資

現在でも石川県沖で地震が発生していて、たびたび震度3~4程度の情報を得る。

地震などがあり人が困っているときに、何かを送って助けたいと言う気持ちは非常に大切なことだと思うが、最近新聞でもラジオでもふれる機会があったが、現地では実は送られても困ると言う驚きの内容。

しかし内容を理解すれば実にもっともな話であった。

現地では建物の崩壊、道の寸断、水道、電気などによりライフラインが途絶え、一種のパニック状態だ、とりあえず避難場所に避難して寝床は確保したが、今後さらに余震が続けば被害も拡大するだろう、また家が崩壊した家庭ではそのショックもあり、すし詰め状態の生活など環境が変わりストレスに感じる人も多かろう。

そして復旧作業の手が足りず、猫の手も借りたいところへ善意と言う名の支援物資が山のように届くのだ。

しかし仕分けはされておらず、開けてみるまで何が入っているかわからない、それらのものがちゃんと仕分けが終わったのが2年後と新聞には書いてあった。

中には生ものや、古着などすぐに人手に渡れば利用できそうだが、仕分けができない状況では後々ごみになりそうなものや、株の本のような明らかに先読みしすぎの面白いものまであるそうだ、まあ暇だけはたっぷりある人の手に渡れば活用されたかもしれないが。

結局一番ありがたいのは仕分けの必要の無い現金だとあった、もしくは復旧に何らかの役に立つ技術系の作業者だろうか、観光地なら観光に行ってそこでお金を使ってくることも立派な救援になるそうだ、その逆で衣類などは地域の商店の営業が成り立たなくなるために、案外迷惑と言う。

しかし地震がおきたところで困っているのは結局人間と飼われているペットくらいなもので、他の動物や昆虫などはどうなんだろう。

地震がおきてもそれを現実逃避して、今までと同じ生活レベルを送ろうとするから無理がかかるわけで、家が無いなら家が無いなりの生活をすれば問題がないのだ、日本では被災で餓死した人はいないらしい、世界で5人に1人は飢えている現状からすればなんでもないことだと思うのだが。

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セレブの意味

数年前からセレブと言う言葉をきくようになった。

一般的には金持ちを指して使われていいるような印象だが、本来のcelebrityは著名や有名な人の事を指すようで、金を持っているとかまったく関係ないようだ。

テレビに出ている若手のお笑い芸人が如何に収入が少なくても、地方の金持ちの社長よりも知名度があればよっぽどセレブということだ。

タレントがセレブの紹介などする番組では、司会者のほうが一般的によっぽどセレブであり、一流のセレブが二流のセレブを紹介しているような物だ、まあそれは皮肉として面白いが。

しかしここまでセレブ=金持ちのような図式が成立してしまうと、というかセレブとカタカナで表現してしまうと、これはもはや日本語であり、「celebrity」では無くどっちかと言うと「せれぶ」に近いのだろうか。

しかし僕はそういう言葉を使うのが恥ずかしいのだが、平気で使ってる人はきっと乗りで生きていける人なんだろうな。

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鉛筆についている消しゴム

消しゴムとは何をする物だろう?

もちろん普通に使えば鉛筆で書いた字を消す物である。

しかし世の中には冗談が好きな会社があって、鉛筆に消しゴム風のただのゴムをつけているところがある。

消しゴムだと思って使うとまったく消えないので、何のためについているのか悩んでしまう。

製造元は消しゴムだと言うかもしれないが、消えないゴムをそう主張するならその会社はどうかしてる。

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ルイビトンのバッグ

ルイビトンと言う有名なブランドがある、小さいころから名前はよく聞いていた、尻取りで『る』と言うのは困る物だ。

僕はまったく所有することに興味が無いんだが、やたらと持っている人を見かけるブランドである。

有名で持っていてとりあえず恥ずかしくなく値段がべらぼうに高くないのが良いんだろうか?

しかしその財布を片手に100均で買い物する姿などみかけると、はっきりいって恥ずかしいと思うのだが、本人はどう思っているのだろうか疑問である。

作業服でベンツやレクサスに車を見に行くと言うのは考えにくいが、その姿でヤンマーやクボタの耕運機なら話はわかる、逆に高級なスーツでビシッと決めて農業屋はありえないと思う。

しかしそれと同じことをしているのだ、セルシオに乗って吉野屋に行くなと言いたい、金持ちなら大衆車をもう一台買ってそれに乗って食いに行けと。

ブランド品を持って、100均にしろ、ホームセンターにしろ安さが売りの店で買い物をすると言うのはTPOをまったくわきまえられない恥ずかしい自分を宣伝しているような物だ。

それを持って出ても恥ずかしくない場所に出られればいいのだが、例えば普通のOLなどではそんな機会は無いと思う、「ではいつもって出ればいいのだ」と反論がきそうなものだが、簡単である、「本当はあなたはそれを買う資格は無かったんです」ということだ。

金さえ持っていれば何を買っても良いと言うことは無い。

ブランド品が自分の品格をあげるのではなく、品格ある自分がそれを持つと言う順序を間違えているのだ。

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洗車

車を洗ってすぐに雨が降ったりすると、残念がるような話を聞くことがある。僕にはその心理が理解しがたい。

車なんて、いや全ての物は時間が経てば汚れが積もっていくのだ。

自転車で名古屋に行ったことがあった、半日ばかり道に止めておいたフレームを手でなでると黒い物が付いた。

街中では洗車時の輝きなど半日すら持続しないのだ。

僕の場合、年2回洗えば良い方なくらい洗車回数だが、これは世間ではどうか判らないが少ないと思っている。

僕のような庶民では、車はステイタスでもなんでもなく単なる乗り物に過ぎないと言うところが大きいと思う。(仮に大会社の社長が運転手に運転させている車が泥だらけ、鳥糞だらけでは信頼に係わりそうな物だが)

そしてボディなんてのは雨が漏ってこなければ良い程度の物であると言う認識がそうさせていると思う。光っていようが凹んでいようがどうでもいいのだ。

先日塗装が浮いていたので、サンダーで削ってみると錆が屋根を貫通していた、もう10年以上乗っている車だ、そんなこともあろう、大きく削り取って防錆してパテで埋めれば完了である。

よく車をぶつけるとその瞬間愛着がなくなるのか、そこを見たくないのか修理にも出さず何も処置をしていない車を見かける。

傷は確実に塗膜に穴を開けて鉄部に錆をもたらす、そういうのを見ると防錆だけはしたほうがいいといつも思うのだ。

洗車と言う作業は、要は鳥糞や砂など塗膜にダメージを与える物の除去かワックスなどの下準備の作業でしかないと思っている。

ワックスなんかかけた後に雨が降ったら、早めにやっておいてよかったってなもんであろう。

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大きな物を表す時

先日CO2の排出量が***万トンで、これは牛乳パックに換算すると約*億本ですと言う記事があった。

CO2は通常は気体で、その重さと言うのはあまり考えたことがない。

計算すれば確かに数字が出るが、この際それは置いといて、単位と言うものについて考えたい。

上記の記事では、万トンと言う単位を、牛乳パック換算で億本と変換しているが、これは親切なんだろうか?

ただ漠然とものすごい量だと言うことはわかるが、それを伝えたいのみになってしまっていないだろうか、

例えば1円の1億倍が1億円であると言うのはわかりやすい。

庶民が気軽に手にする金額ではないが、5000万円の家が2件買える値段などと、割と身近なものとも置き換えられるし、お金は実際によく使うものだから慣れていると言うのもあるとおもう。

では小学生の50m走で考えてみると、自分のころは9秒台なんてのは低学年でも割と当たり前の数字だったが、スピードを2倍してみると、単純にオリンピックでメダルが取れるほどになってしまう。

人の数で考えてみると、野球の観客が1試合に約4万人だとすると、1億人と言う数字は、2500試合分になってしまう、1シーズンで試合が約140×3×2で、840試合だから、3シーズン分に相当することになる。もちろん全試合4万人入ることなど無いからそれ以上かかるだろうが、途方も無い数字だ。結局1億人の人間と言うのはどれくらいなのかよくわからない。

わからないものと言うのは、表したところで結局意味が無いのだ。それならばもっと違う単位なり表現方法を用いるべきだろう。

よく使われるのは東京ドーム何個分とか琵琶湖何杯分というものがあるが、結局東京ドームの大きさなどわからないし、琵琶湖など地図で見るのは平面であって、深さが何メートルあって体積がどれくらいなのかわからない。

身近なものに例えて、わかりやすくしたつもりが、本当はそれもわからないと言うことはよくあると思う。

例えば牛乳パック1億本と言うのは結局1億リットルのことだろうから、10万㎥となり100m角の3階建ての建物となる。

結局大きなものでちゃんとはつかめないが、億倍と言われるよりも、現実的な形をイメージできたと思う。

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単一機能

技術の進歩とともに、半導体部品はどんどん小さくなっている。

しかし人間のサイズが変わらない以上、携帯電話のサイズはこれ以上小さくしても使いづらくなるだろう。

もしくは画期的な技術革新によって、一切手に持つことなく、通話やキー入力が出来、画面も空間の一定の距離に鮮明に投影できるなど、もっと進めば聴覚、視神経などに直接作用するなどあれば、かたちと言う規制は一切なくなるが。

やはり口と耳の距離があるし、ボタンはある程度の大きさが無ければ操作しにくい。

それともう一つ、携帯が小さくなった最高の貢献者は、電池であることは間違いが無い。

実用的な使用時間の確保は、コンセントから離れた全ての電化製品の課題である。

半導体などの省エネと、電池の体積あたりの容量、出力の性能アップ、設計の見直しによる空間の効率利用による物もあるかもしれない。

そしてこれらの成果によって、同じサイズでありながら携帯に限らずいろんな電化製品が多機能化している。

携帯電話の進化のように、スマートな多機能化から、ラジオ機能のついたボールペンなどのような使用感に若干?をつけざるを得ない物まである。

しかし、その反対にある一つの機能に特化した製品と言うのは、ある種不器用な、また頑固な職人的なかっこよさがあると僕はおもう。

前項でも書いたようなフライ返しや爪切りなんかもそれに当たるだろう。

また半導体を用いて作られているものでも、上位の音響機器などは単一機能であることが多い。

また時計も基本的に時間を知るのみの道具だ。

しかし腕時計では宝石が付いて装飾品なのか時計なのかあいまいな物もある。これは純粋な用途ではないんでみっともないのだ。

それに時計サイズの装飾品は大きすぎて下品なもので、文字盤に数石程度にしておきたい。別に金属光沢というのは不快ではないのだが。

しかし電波時計や、防水能力、ソーラー式充電など時計の能力を発揮するための機能は正当進化だと言える。

こんなことを書くのは僕が今日ラジオを買ったからなのだ。

聞くのはもっぱらAMなんで当然モノラルなんだが、それ以上に電波の入り方によっては雑音がすごい。しかし普段CD音源で聞く音楽には当然雑音は入っておらずクリアなんだが、それとラジオの音と言うものは純粋に比較できないと感じている。それは「ノイズが良い雰囲気」という、ちょっと逆行した物。

ちゃんと音楽を聴きたいならまったく邪魔な物かもしれないけど、あることによってパーソナリティーを一個人として、話の内容を純粋に受け取りやすくなると言うのと、聞いてて疲れにくいってのが僕にはある。

しばらくラジオのある生活を堪能してみたい。

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個性という魔法の言葉

今の時代、個性という言葉がよく使われる。

しかし個性というのは、少なくても人間として成熟したもののみが発揮できるものだということだ。

年齢がどうこうと言う訳ではない、ものには規則というものがあることを忘れてはいけないのだ。

日本では車は左側を走ることになっているが、右側を言わば逆走する事を個性と呼んで良いだろうか?

極端な話だが、そう遠くないことは一般に行われていると思う。

認められている範囲で工夫をすることは悪いことではないが、決まりを犯してしまってはそれは個性ではなく違反なのだ。

また規則で決まっているものを指して、個性的では無いと言う無神経さはどうだろう?

規則で決められていることにはそれなりに理由があるのだ。

そう言うと

「規則に縛られて」

と、いかにも個性も何も無いおろかな人間だという評価をされるかもしれないが、理解が得られないのも致し方ない。

しかし規則というのは、特に成人するまでにおいては、躾の一環であると思っている。

規則も守れないような人間はろくなものではないのだ。

規則に縛られるということを一通り経験した上で、それを土台にその中でどう展開できるかが重要だと思う。

また規則と言うものが、伝統とイコールである場合、そこに個性など持ち込もうものなら今まで継続してきたことを貶めることになりかねない危険性も含んでいる。

もちろんそれによって商品などがより洗練されることもあるが、たとえば祭りや宗教においては個人の個性など価値を見出すべきものではないと思っている。

今の日本人は、何かにつけて個性個性といっているわりに、個性が成長していないのだ。

それは当然なのだ、戦後の教育で育った人間の多くが個性を失い、さらにその教育を受けているわれわれ世代以降、各自が確固たる信念も持っていない。

学校の教育では正解が一つしかないテストを用意され、誰もが個性を押し殺して成長してきたのだ。

成長していない、言い換えれば持ち合わせていないものを、他人のせいにして規則があるから主張できない、というわけだ。

流行の服を着て、流行の音楽、流行のブランド、人が持っているものをこぞって手に入れようとしている様子のどこに個性があるのだろう?

人と違っていることが恥ずかしいと思っているうちは、個性など発揮できないだろう。

自分の能力を伸ばしていった結果が個性なのだ、他人の個性に乗っかっているうちは、自分に個性などないと諦めてもらいたい。

何も持たない自分に自信がもてれば、それが主張となるのだ。

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柳 問題 機械 健全

子供を生む機械、二人以上が健全、であっただろうか?

この中で僕が問題がある思うのは、「機械」と言う部分だけであるが、違うだろうか?

人間と機械が一緒なんていったら、大木こだまひびきの漫才だ、いやああのだみ声が聞こえてきそうだ。

「女性は子供を産むものだ」

これは何も問題が無い、真実をただ述べているだけだ。

これに対して異論を唱える者はきっとどうかしてる。

「子供が産めない女性は壊れた機械か!」

のような発言を目にするが、それは違う、「壊れた人間だ」

人はいかに自我を持ち、人生と言う期間を謳歌しようとしても、所詮は動物であり子孫繁栄が一番の目的であることに変わりは無い。

子孫繁栄に貢献できない人間は、男であろうと女であろうとも、機械であれば壊れていると言わざるを得ないではないか。

仮に手が無かろうが足が無かろうが、生きて子をなせるならば、価値はあるのだ。

それは自然の中ではごく当たり前のことでは無いだろうか。

また、

「子供は二人以上が健全」

と言う発言。

人が今の社会で正当に子を儲けるには、結婚した後と言うのが一般的だ、そして一夫多妻制は禁止されている世の中では、親二人に対して子が一人では人口を維持すら出来ないではないか。

結婚した男女が、二人の子を得たとしてその子のどちらか若しくは両方がまた二人の子を儲けるまでに、死ぬかもしれない。

そう考えると、出生率は2人以上でなくては、人口は減少していってしまう。

二人以上が健全と言う発言を問題発言だというなら、それは、

「人口が減少しつづける国家が健全」

と言う思想の持ち主であろうか?

こんな些細な言葉を捉えて問題発言だ、と声を上げる力を他に回せない物だろうか、もったいないことだ。

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省エネ エコを語る

電気をこまめに切る、エアコンの設定温度を1度下げると、などいろんな小技は各所で目にするが、些細な事だ。

効果が無いわけじゃないので、否定はしないがもっと良い方法がある。

それはこまめに電気を消したりしなくてもいいし、エアコンも普通に使っていれば良い。

しかしそれを提案している人をあまり見ないのは、結局のところいろんな家電や車、電気やらを使ってもらわなければ困ると言う、今の社会が省エネには全く向いていないからだろうか。

では省エネにはどうすればいいか、簡単である。

普通の家に大人数で住む。

これだけでいいと思う。

例えば冷蔵庫、小さいものを2個よりも、二倍の容積のものを1個の方が消費電力は小さくなる。

例えば風呂、全員が順番に入れば何度も沸かさなくてもいいし、水の量も少なくてすむ。

例えばエアコン、個別の部屋にいるよりも、みんなが一室にいれば当然効率が良い。

6畳間よりも12畳間で2倍の人数がいたほうが効率が良い、それは室内の体積が2倍なのに対して、壁面積が2倍にならないのもあるし、家具など効率よく置けて有効に使える床面積も広く取れるはずだからだ。

もっと言えば、家事も一人暮らしなら全てやらねばならないが、複数で住んでいれば割る事ができる。

買い物は順番で行ってもいいし、食材を切る量は増えるが、鍋で煮る手間はそれほど変らない、洗濯物は増えるが、洗濯機を回す手間は変らないなどだ。

ついでにアパートなどなら家賃も割れる。

いつも一緒にいるのは辛いと言うなら、5人で3軒借りるくらいで、たまにそっちに逃げれば良い。

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側溝の蓋で躓き転倒 裁判

馬鹿だ。

ついにここまで落ちぶれたって言うか、損害賠償を命じてしまうほうもどうかしてる。

車で言ったら居眠り運転していて電柱にぶつかった運転手が、電柱を立てた責任者に裁判を起こし勝訴するような物で、要は前を向いて歩いていれば防げた事故なのだ、

「不注意でしたね、ご苦労さん」

で終わってもいい裁判だと思う。

だいたい自分のしでかしたことに責任も取れずに、人のせいにしてる人間なんてろくなもんじゃない、これが高齢者であろうと1歳であろうと障害者であろうと自己責任だという意見は変わらない。

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あるある捏造問題

テレビの報道でも、新聞でもそろそろ叩き終わった感があるけど、きっとちゃんと探したらもっと沢山でてくるだろう。

捏造以前に、マイナスイオンとかよくわからない物も扱っているんだから、良きにせよ悪しきにせよ話題がある番組であったことは確かだ。

もっとも僕はこういった類の安易な健康番組と言うのをまったく好かないので、見た覚えが無いのだが。

しかし何で健康や体形にそんな方法で気を使うのか僕にはいまいち理解が出来ないところがある。

べつに不健康や太り、痩せを推奨してるわけじゃないけど、単一食品に頼ってそれを求める姿勢がわからないのだ。

食べ過ぎて太ったのは、自分に責任があるんだから自堕落な自分を世間に晒し続ければいいと思うし、それだけの食料を消費したんだからその責任があると思う。

また納豆ではダイエットだったが、健康に関してもそうで、日々ちゃんと食べて自分の勤めをこなしていれば、明らかに不健康などと言うことも無いだろう、子供は走り回り、大人はは家事、会社勤めなどにあと一歩運動要素を入れれば十分だ。

それをせずに怠けている人間が、健康になろうと言うのは意味がわからない、不健康でいいじゃないか。

もう一つの問題は、テレビを見て商品を買いあさる浅ましさだと思う。

あの番組が放送で特定の商品を扱うたびに、スーパーなどからはその商品が消え、普段から買い求めている人にとってはいい迷惑であり、自分もその浅ましい人間と見られるかと思うと、買える物も買えなくなってしまう。

それで騙されたとか言っているんだから面白くてしょうがない、身内にいたら殴ってるね。

大体がテレビと言うメディアがすべて作り物であると言う認識が無くてはいけない、信じられるのは

「地震がありました」

などのの報告くらいの物で、大真面目の天気予報だって外れることもある。

と同時に、行動は全て自己責任だという原則を忘れてはいけない。

仮に「ハイウェイウォーキング健康法」と言う番組が作られたとしたら、本当に高速道路を歩き出す人がいるんじゃないだろうかと心配になる、自分で考えることが大切なのだ。

どこかそういった類の企画を放送しないだろうか、興味はある。

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レクサス 認識

レクサスLS460が出てしばらくたった。

今日本で発売されているのは、IS・GS・SC・LSの4種だ。

以前からの慣わしでISはアルテッツァ、GSはアリスト、SCはソアラ、LSはセルシオだといわれているが、正解は時代と主に変化するもので、一部は認識を改めないといけないと思う。

まずISはどうか。

IS200の時代はまさしくアルテッツァだったが、今のものはベースがクラウンだというではないか、そしてエンジンは250、350ともにクラウンアスリートのラインナップと同じで、これはクラウンアスリートといったほうがしっくりくると思うのだ。

そしてGSはどうか。

GS300の時代はまさしくアリストそのものだったが、今のものはIS同様クラウンがベースではないだろうか、そしてエンジンは350ではISと同じもの、430ではクラウンマジェスタと同じものだ。

これは以前のエンジンの種類が2種類あったころのマジェスタと同じようなもので、ISをクラウンアスリートとした場合マジェスタであろう。

SCは若干違いがあるが、ソアラに他ならない。

LSはセルシオだといえばそうだが、あれはもうひとつ上のグレードを作ったといったほうがしっくりくるように思う。

そうおもうと、下がない分ラインナップは実に貧相なんだが、これからトヨタには無い高級路線をどれだけ発表していけるかが、その存在意義になってきそうだ。

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死を間近に感じて考える 2

病死は、成人の死因の常にトップだろうと思うが、詳しくはない。
人間理想的に生きれば、120歳くらいまで生きるといわれていた気がするが、今はもう古い話だろうか?
それを思えば、80前後で死を迎える場合、なんらかの病気が原因なんだろうと思ったまでだ。

今は病気なり死の間際になると、病院に入ることが普通だと思う。
そうすると、自分が死ぬことをあらかじめ知るのだ。
いやもちろん人は死ぬことが前提だが、病気で治る見込みがない場合など
「余命半年です」
などと告げられて。

医療が今ほど発達していなくて、盲腸や虫歯なんかでも人が死んだ時代もあったと思う。
ばたっと倒れてそのまま死んでしまう。
これはどうなんだろう。

「医療がしっかりしていれば助かったのに」という気持ちは確かにある。
しかし、サバサバして気持ちがいいとも思えるのだ。
ここで変に手術などして、意識が回復してから「余命何日です」「治る見込みは・・・」なんていわれるくらいなら、そのまま死んでしまったほうがどれだけ心労が少ないことかとおもうのだ。
本来死というのはそんなアッサリしたものだったんではないだろうか。

逆に、誕生は妊娠を気がついてからの数ヶ月、周囲に期待と喜びをもたらすことだろう。

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死を間近に感じて考える 1

前回の更新からずいぶん日が開いてしまった、まあ正月休みだということにしておこう。
そして復帰第一回目が「死」というやや重たい内容というのは、・・まあいつものことか。

死というのは、誕生の瞬間から等しく全ての人に与えられた定めであり、今までにそれに抗うことが出来た人を僕は知らない。
必ず訪れる死というのは、どんなものなんだろう?

死に方にはいろんなケースがあるが、老衰というのが現代では一番良いとされていると僕は思っている。
そして多いのは病死であろうし、また突発的な事故や事件によるもの、または自殺や自決などであろうか。

僕が死を意識したのは、確か中学生の頃だったと思う。
きっかけが何であったか、宗教を勉強しだしたのが先だったか、死を意識したのが先だったか今では定かではないが、そういうものに興味を持っていて、授業中にも写経などしていたような、今思えば変わった学生であった。
当時僕がいじめられていたという事は全くなかった、少なくても僕自身はそう感じていなかったし、広く交友があって楽しい学園生活であったことは間違いない。

死というものに向き合ったときにひとつ確立したのは、
「自殺はない」
というものだ。

自殺とは、現状を不満に思い苦しくてそこから逃げ出す行為だと僕は思っているからだ。
苦しいことはいけないことだろうか?、辛い事はいけないことだろうか?
どちらも決してして楽しいことでないのは百も承知だが、いけないこと、悪であるか?と問うてみればそうではない。
スポーツをやる人は多いだろう、向上心があるならば自分の体に厳しくなくてはだめだ。
それは決して楽なことではないが、悪ではない。

苦しく辛い道をあえて進もうというのが、そもそも生きるということなのだ。
より苦しく辛い道であるほど、生というものが輝くのだ。

盆栽というものがある。
これはなぜこんなに支持されるのだろうか?
「広い庭がなくても、小さな空間で植物が楽しめるから。」
「いろんな花を見てると四季の移り変わりが・・・。」
「室内にグリーンを」
などあるが、
植物ははっきり言って、小さい鉢に収まりたいとも、不要な枝を選定してほしいとも、室内に入りたいとも思っていないはずである。
本来あるべき場所で、自由に育ちたいはずなのだ。
「厳しい環境の中植物がたくましく懸命に生きている様を間近に見ることが出来、その姿・生命力に感動を覚えるから」
が本質だと思っている。
だから見事な花を付けない裸子植物が、盆栽の王道であるのだ。

いじめで自殺などまさにもったいなくて選択肢には入らないのだ。

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子供は残酷なのか、天使なのかどっちだろうという議論

子供は時に天使のように愛らしく、またあるときは大人から見ればひどく残酷である。

はたして子供の本質はどっちなんだろう?それがわからないと困る。

のような記事を新聞で見かけた。はっきり言ってうろ覚えで、誤解してるかもしれないがまあそういう意見だったと捉えて話をしよう。

どっちなんだろうといわれると非常に困る、それは例えば、

大リーガーになった松坂ってロッテ出身でしたっけ?阪神でしたっけ?どっちでした?

と聞かれてるのと同じだからだ。

子供を一番捉えているのは、「無」であろう。

最近は平等平等と言うのが流行っていて、(特に低年齢の)子供にも大人と同等のものがあると言う見方をするが、そうではない。

生まれてきたばかりの子供というのは、容器はあるが中身がない状態であろうし、または走りはするが制御できない車であろう。

結局人を外見で判断してかわいいと思っているだけで天使ではないし(もちろん我が子ならば違うが)、制御できていないシステムを残酷という事など出来ない、それは単に未完なだけだ。

人は生まれながらにして、感情や命などは有しているが、人格などはとても完成しているとは思えない、それは成長の段階で形成していくものだろう。

全てのものに簡単な答えを出す事が今の日本の流行りだが、間違った答えなど求めていない、多くの人は考える事をしないから人が出す答えに頼ってしまっているが、それは危険な事だと僕は思っている。

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薬なのか嗜好品なのか目線で変わる受け答え

薬とは天然由来にしろ、人工物にしろ、有効成分を集めた物だろう。

食べ物とは、普通に食品として摂取する物だ。

しかし、食べ物もしくは普段は食べないけど、身近によくある植物などで体に何らかの効果をもたらすものは珍しくも無いし、ビタミンやミネラルも珍しい物ではない。

例えば「プルーン」

沢山食べるとおなかがゆるくなる場合があると書いてある。

これを下剤のような目的で食べる人にとっては、嗜好品ではなく薬と言う認識だろうか?

そうするとそれを食べている人に対して、「好きなんですか?」と言う質問は的を射ないものになってしまう。

高血圧に対する薬を飲んでいる人は、べつに薬を嗜好品としているわけではなく、薬効を期待しているだけだからだ。

食べ物と言うのは、薬とある意味同じなんで会話の中で、嗜好品・空腹・薬効など何について話しているか瞬時に判断しなくてはいけない。、

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よくわからないけど効果がありそうなもの。

目に見えないものに人は常におびえている。

水道から出てくる水は体に悪いものが入っている。

今吸っている空気は体に悪い。

あれを食べなきゃ病気になる。

メディアは面白く騒ぎ立てすぎだ。

冗談が通じる人がいれば通じない人もいる。

冗談のような報告に世間は混乱しているのだ。

例えば・・・・「ランエボを買いました」

さっそくチューンナップのためにホイールとタイヤを交換しよう。

一本25000円のホイールと、15000円のタイヤで、計160000円、結構な出費だが愛車のためだ。

でもそれって純正よりも性能落ちてるんじゃない?

ってことだ。

初めに提供されているものは質の悪いもの。

後から出費した物は前のものより良いもの。

と言う先入観じゃないだろうか。

せいぜい100年程度しか生きない人間が、仮に飲みつづけた場合500年後に発症する病気について気にしてもしょうがないだろうに。

仕事で今自分は悪い環境に置かれている、もっと良い環境ならもっと実力が発揮できるのに・・・。

思い上がりである。

現状を打開できない人間に能力など無いのだ。

職種を全く変えればもしかしたらもあるかもね、程度だ。

今自分の体は不健康なのだ、あれを使えばもっと健康的になれるのに。

自己管理も出来ず不健康になった人間は、結局何があっても無理なのだ。

巷で効果のほどが良くわからない品物はありふれているが、そんなものは無くても何も困りはしないのだ。

仮に必要になる人種がいるとすれば、それは努力した上にさらに藁にもすがる思いであろう、プロの選手や、難病などを克服したい強い意志をもった至高の人種のみ恥ずかしくない代物だと思う、それ以外はギャグの域だね。

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キャベツ廃棄  

野菜がとれ過ぎると、供給過多で値段が落ちてしまう、だから廃棄。

もったいないと言う人はきっと多い、僕も捨てるくらいなら僕に頂戴と言いたいが、それでは意味がまったく無い(笑)

この世でもっとも尊い職業は「食糧を供給する職業=農業」だと思っている僕は彼らが廃棄した野菜に対してお金が支払われることに異論は無い、それが税金であったとしても。

彼らがいなくては食料は供給されないのだ、海外からの輸入に頼ってはいけない。

しかし食卓にのぼり廃棄される食量と違い、畑に捨てられた野菜は生まれた土地の土に返るのだ、言ってみれば無駄になったのは人間が使ったエネルギーでしかない。

もったいないと言うのは、耕運機などに使った燃料のことを言っているのだろうか?

食べ残しをごみとして焼却するのとどっちがもったいないだろう?

もっと極論を言えば、人の手など加えずとも自然界には雑草として刈り取られてしまうが、食べられる物もある。

それを食べずして見過ごしているのは、野菜があるのに食べないのと何か違うのだろうか?

余るほど野菜を作れることを誇らなければいけないし、農家には多大な感謝をしなくてはいけない。

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妄想癖

人は何を考えているんだろうかと、時々気になる。

べつに僕がどう見られているかが気になるんじゃない、むしろ僕はそんなことまったく気にしないタイプだ。

そうじゃなくて、単に何を考えているんだろう?と思うわけだ。

普段一緒にいる人だって、仮に同じ物を見たとしても自分とは同じようには捉えないだろう、その人は何も感じなくても、僕は怒っているかもしれない。

一生懸命打ち込んでいる人は、そのことに集中していると信じているが、一見ボ~としている人が、何を考えているんだろう。

体が動いてなければ怠けている、とは言え無い。

一見何もしていないがすごい思考を廻らしているかもしれない。

そのすごい思想が、妄想であるか、想像であるか、空想であるか知らないが、それがどんな結論であれ、その人がはじき出した答えなのだ。

それが間違っていると、どうしていえるだろう?

今現在間違っていることでも、発言したことにより正解になるかもしれない。

逆に以前は世間的に正論だとされていることが、現在ではすでに間違いになっていることも多々ある、それを時代遅れに唱え続けている人もいる。

がそれもまた逆転するかもしれない。

どんな思考でもいいのだ、自分が思っていることは正しいと思うことが、少なくても自分の中では正解なのだ。

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無駄な荷物を降ろして車の燃費を向上・・・ でも

「2000ccの車で、10kgの荷物を積んで10000km走ると、30kmぶん燃費が悪化する」

とか、

「30kgの荷物をつんで100km走るとやく70cc()の燃費を余計に消耗する」(仮に10km/l車なら10000cc使って差は70ccで距離なら0.7km)

とか書いてあった。

以前JAFの雑誌か何かで、車にいつも使わないキャンプ用品を積んでいる旦那が言い訳に「災害に備えて」のようなことを言っているのを、妻がたしなめると言う話が載っていた。

「災害に備えて」

言い訳として不足だろうか?

キャンプ用品ならば車がペシャンコにでもならなければ災害時に役に立つであろう。非常食や水など積んで、ちゃんとメンテナンスがしてあれば最高だ。

それが上記のように「30kgで~」の話のように燃費が0.7%落ちたとしよう。

仮に月給30万円の人が0.7%にあたる2100円を月々保険に払い続けることは、馬鹿げているだろうか?

1%にも満たない燃費向上のために、車からしぶしぶ荷物を降ろすくらいならば、1%走行距離を減らす努力をすればいいし、100日に一回いつもの道を自転車で走ればすむことだ。

そんな些細な燃費が気になるくらいなら最初から車なんて乗らなければいいのに。

自分の車には遊び道具満載でありたい物です、同時に僕は自転車で年間5000キロは通勤してます、朝のラッシュは自転車のが早い。

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クラクション

自分は車に乗るようになってまあそここそなりますし、仕事で運転する機会もかなり多いです。

しかしクラクションを使う機会というのは、列の前に入れてもらったり、止まってもらったときの挨拶の時くらいでしょうか。

何度も追突事故になりそうな割り込みをされたことも有りますが、本当に危険なときは片手を離してクラクションを鳴らしてる暇なんて無かったです。

今朝の通勤時、コンビニの駐車場から右折する車が、手前の車線に大幅にはみ出して機会を伺っていたところ、ずいぶん遠くからず~~~とクラクションを鳴らし続けた車が近づいて来て、横をすり抜けた後、猛加速(軽トラの)で走り抜けていきました。

確かにはみ出して待っているほうもどうかと思うけど、通れるなら平然と通れば良いかと思いました。

仮に通れないときは、それなりの対処をすればよいでしょう。

音が大きいだけに、必要最小限の使用にとどめたいものです。

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善人が善、悪人が悪だったらわかりやすいのに。

世の中良い人と悪い人だけがいるわけじゃないが、人間的に良く出来た人とか良い印象を受ける人、またその逆の人というのはいる。

しかしほぼ万人が良い印象を受けて、実際行いもすばらしい人が、善かどうかというのは全く別次元の話で、その人すら基準によっては悪である、逆に人間的に悪人を絵に描いたような、誰もが死刑を望むような人が善かもしれない。

善人なんて結局汚れた社会の中の善であって、悪人とどれほど違うのかといわれれば、はなはだ疑問である。

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趣味は○○  ~読書~

アンケートなどで趣味を記入するものは多い。

しかし読書なんて大雑把過ぎだ。

たとえば「作者誰々の小説」ならばほとんど特定できる。

もう少し大雑把でも、「江戸時代を扱ったもの」など時代で区切る。

まはた「ロシア文学」、「推理小説」、「自己啓発」などで別けるかしなくては。

また、スポーツ関係の「HOW TO」物は読書ではあるが、スポーツやスポーツ観戦であろうし、図鑑などは動物図鑑なら動物に興味があるだろう。

趣味読書は無趣味と言われる所以は、結局のところ読書が何も指してはいないからだろう。

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趣味は○○  ~パソコン~

アンケートなどで趣味を記入するものは多い。

しかしパソコンなんて大雑把過ぎだ。

パソコンとは何だ?

好意的に捉えて推測すれば、インターネットを使った何かだろうと思うかもしれないが、そう推測すること自体が間違いかもしれない。

ソフトには興味が無く、CPUのクロックアップのみが生きがいの人かもしれないし、部品大好きかも知れない。

逆にハードには全く疎いが、素晴らしいデザインをするアーティストかもしれない。

ネット通販は単に買い物だろうし、PCゲームはゲーム(これも何も指してはいないが)だ、パソコンもいろんなことができるだけに、何も指してはいないのだ。

唯一指してると言えば、部品が趣味の人だろうか。僕は基盤の模様とかかっこいいと思うが。

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まぐれってなんにでもあるってこと

バットを振ったらまぐれでボールが当たったとか、すぐに結果が出るまぐれはたまにはある。

ボールが出てるコースにバットが偶然出てれば、当たる可能性はゼロではないからね。

もう少し複雑になって、まぐれで美味しい料理が出来たはどうだろう?

美味しい食材ならば、手を加えないほうが美味しい場合も多々あるけれど、手をどんどん加えていってもなお美味しいのは、料理をしない人にとってはまぐれの域だろう。

でも別に食べられないものを入れていてるわけじゃないから、最低限のルールを知っていれば結果美味しくても不思議は無い。

まぐれで家が作れちゃったは?

普通家なんか自分で作らないけど、まぐれ作れてしまったなんてことあるだろうか?

これもあると思う、そりゃあ大工が作ったような、立派なものは出来ないかもしれないけど、すごいまぐれが起こればそれ以上かも。

大人になると、自分の出切る事の上限をあらかじめ設定してしまい、最初からやらなかったり、初めからあきらめていたりしてる人が多い。

少ない経験から自分は不向きなんだと勝手に決め付けてしまう。

でもまぐれを信じて楽観的に挑戦してみるのも悪くない。

学生時代の美術なんかで、まぐれで(自分的には)良い作品を作った。

その中で思うのは、どれだけ諦めずに挑戦しつづけられるかだ。

上記の例で一番起こりにくいまぐれは、最初のバットの例かもしれない、他のはみんな修正がきくから。

コツコツと諦めずに少しずつでも前進できれば、きっとまぐれが起きると思って、僕は今物作りをしている。

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スポーツ放送

昨日はバレー日本戦のテレビ放送があった。

バレーは僕の苦手とする球技なんだがまあそれは置いといて、スポーツ選手の運動能力というのを堪能した。

すごいジャンプ力、打ち出される目にも留まらぬアタック、またそれを見事に止める、すごいなあ。

しかしいつも思うことだが、それに水を差す物がテレビに映りこんでいて、興ざめするのだ。

テレビの故障であればいいのだがそうでは無いらしい、困ったものだ。

意味のわからないアイドルが映りこむたびにチャンネルを変える動作をしなければいけない。

べつに彼(彼女)等が嫌いなわけではないが、場違いな感じがするのは僕だけでは無いと思う。

元選手で現在芸能人とか、であれば良いのだが・・・。

お笑い芸人が面白半分に殺人事件のニュースを放送するのと似たような感じを受けるのだ。

テレビカメラが入った時点で作り物感が出てしまうのはしょうがないことか・・・。

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塾渋滞

最近以前より少し遅い時間に出勤するからなのか、目にする光景が塾渋滞だ。

ちょうど帰宅時間にあたるのだろう、保護者が車で迎えに来るのだが、ずらっと何台もの車がハザードランプを点けて止まっているのだ。

僕が見かけるのは18時半~19時くらいなんだが、その時間は帰宅ラッシュ時でもあり、車も増える。

わが子かわいさや利便性を求めるあまり、世間に多大の迷惑をかけていると言う認識が無いのだ、もう少し良識がある人間なら大通りには止めず、少しはなれても比較的車通りの少なそうな止めるだろう。

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死んだもん勝ち?

問題提議として捉えてほしい。

「いじめによる自殺者が後を絶たない」

と言う報道が加速されてずいぶんなるが、人が死ぬことはそんなに珍しいことではない。

誕生したものは、いずれ死を迎えるので、死を悪と捉えると、誕生イコール悪となってしまう。

また、苦渋の選択であったにしろ死に方を選択できたというのは、贅沢なことだ。

普通穏やかな老衰以外では、病気・事故・事件によって抗うことが出来ず死ぬものだ。

今の世は、心の根底に、

楽=善、苦=悪

という式が成り立ってしまっていると思う。

走っていくのと、車で行くのだったら、車で行くほうが良い選択である。

贅沢暮らしと、貧乏生活、贅沢が善で貧乏が悪である。

本当だろうか?

では何も苦労を知らずに育った人間と、苦労して育った人間は、どちらよりすばらしい人間に化けるだろうか?

しかし貧しい人は怪しい、金持ちは信用できるという認識を持っている人は多いように思う。

さて問題の、「いじめを苦に自殺」だが、僕は苦難の道から逃げているだけで、別にかわいそうな人とは思わない、そういう人間はどの道どこかで脱落していくものだ。

いじめを受けている状況と、自殺でより辛いのはどっちだろう?

きっと自殺という楽な道に逃げてしまったのだろうが、あえていじめを受けるという茨の道を選択し、将来「私は昔いじめられてまして」なんて話せる人間は、大物になっているだろう。

逆に全てを手に入れた者が、「死後の世界に興味を持った」などと自殺を考えるならば、それはそれで面白いと思う。

仮にだが、今の流れに乗って自殺すれば

「何かしら話題になるだろう」

的な打算があったとするならば、全く恥ずかしいことだ。

恥ずかしいといえば、親は学校や政治に文句を言う暇があるならば、

「自分の教育が悪く弱い我が子が世間を騒がせ申し訳ない」

というべきである。

それほど自殺ということは恥ずかしいことだという認識がなく、最近は世間に責任を押し付ける風習が広まってしまっている。自分で問題を解決できないことは、恥ずかしいことなのだ。

「最近は何でも低年齢化してきて~」と面白おかしく興味本位で報道されるが、ならば自分の子供をせめて13歳で成人くらいの気持ちで、教養など身につけさせれば良いのだ。

ゆとりなど必要ない、能力が上がれば余裕が出来る、それで十分だ。

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車の色

車の色は、細かく分けると例えば同じ白でも何種類もあるけど、大きく白・黒・シルバーのように分けるとかなり限られてくる。

それぞれの車には、何種類かの色が用意されていて、その中から普通は選ぶんだけど一応メーカーが一押しと言うか、色を決めていると思う、例えばSUBARUのインプレッサのWRXだったら青と言うように。

どこのメーカーでも基本の白・黒・シルバーはあるとして、マツダなら赤や黄色、青の元気な色、三菱ならクリーム色や朱色とやや淡いような微妙な色、だったりと特色がある。

もちろん車によって、コンパクトカーは色の種類が多かったりあるけど、似合う似合わないがある。

緑の日産マーチは選択肢に入るが、緑のシーマは大衆受けしないと思うように。

しかしそこまで違わなくても、なぜか僕にこだわりがあるのが白いクラウンは良いが、白いマジェスタは何か物足りないというものだ。

小豆色のクラウンもあるし、赤いヴェロッサもある、ヤフオクで全身メッキのセルシオも出品されていた。

これは完全に個人の好みなんで人が何色にしていようと良いんだけどね。

そんなこととより僕の車はもう半年くらいは洗車もして無いな。

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技術

昔は何でも自分で作ってなのかな?

すくなくても今の人間よりは、いろんなものを作り出していただろうって思う。

お金を出して何かを買うというのは、自分が劣っているからだ。

自分が作るものの方が優れていれば、後はコストの問題だがこの際それは気にしない、本当に上質なものにコストの話を持ち込んではいけない。

自然から授かるもの意外で、人間が本当に必要なものってのは、本当は自分で作れるようにならないといけないな。 

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差し障りの無い事

本当に言いたいことはあるけれど、言ってしまうと気まずい雰囲気になるだろうか?

そんな打算が先回りして、言いたい事は言えずに差し障りのないことを言っておこう。

そんなことないだろうか?

でもそれが本当に言わなくちゃいけないことだったら、きちんと言わなきゃだめだ。

その場が気まずくなろうとも、きっと後からわかる時がくる。

自分を可愛がってばかりいたらだめだ。

自分という思考の塊を、ぶつけていかなくては。

止まっていては腐ってしまう、自分が動いて周りを動かしていけばきっと得られるもののが多いはず。

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先日東京まで車で行った。
中央道を通ると途中山ばかりだ、もちろん山梨に入れば富士山も見える。

自分は都会ではないが、割と平地に住まいがあるので、身近には山と言っても何十メートルくらいの盛り上がりでしかない。

しかし岐阜、長野ともなれば、日本有数の山岳地帯だ。

山と言うのは信仰の対象であったりするが、普段目にしない僕らが見ればただ偉大だと圧倒されるし、そこに住む人にとっては、恵みとともに恐れをもたらす対象のはずだ。
人の存在が以下に小さく、無力であると感じられ、また生きていることを実感できる。

また、やけにきれいな三角錐のような山を見かけると、実はピラミッドでは?とムー的な思考がよぎってしまうのはしょうがない。

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したつもり

そんなこと意味が無いのはわかってるけど、やっておかないと何かあったときに言い訳できないからしょうがなくそんなことをするのだろう。

・車の運転時に見える位置に「左右確認」と印刷された黄色い紙を張れと言われた。

・停止線では3秒間とまれと言われた。

交通安全のためだと言いたいらしい。

しかし、車の内装と言うのは、特にダッシュボードは基本的に黒、グレーなどが多い、これはフロントガラスにその反射が映りこまないためだと僕は思っている。
仮に白い紙など置こうものなら映りこんでたまったものではない。

また僕は車の中で物がブラブラとしているのも気になるので、そういった類のものは付けないし、目に入るものはなるべく目立たないもの方が運転に集中できると思っている。
ちなみに運転は嫌いではなく、むしろ車好き、長時間の運転も苦にならないほうだ。

さて運転する際に、改めて左右確認を強調されるのだが、左右確認など運転手にとって当然である、交差点はもちろん、民家や物陰からの飛び出しも意識して当然だ、これは免許を取ったときにすでに全員が身に付けているべきものだと思う。
それをいまさら左右確認とは。
しかもそれを見ているときは、明らかに前方不注意になるし、その黄色が視界のどこにあっても目障りこの上ない。
それがあるおかげで事故をしそうな雰囲気だ。

そして停止線では3秒停止しろという、何秒でもいいだろうと思う。
大切なのは安全が確認できればいいのだ。
田んぼのど真ん中の道の1キロ先まで見通せるような停止線で3秒とまる必要性を感じない、法律的にはとまれだろうからいったん止まるが、それは1秒だろうが良いと思う。
逆に通学路や、見にくい路地なんかは5秒だろうと10秒だろうと見てればいいのだ。

何かを決めたその瞬間からそれにとらわれ、考えることをしなくなる。
世の中と言うのはもっと臨機応変なもので、今の世の中は決め事が多すぎる。
大切なのは各人が物事の目的を理解し、すれを成し遂げることだ。

「車に乗るときは安全に気を配れ」と言えば良い。これでも言い過ぎの感はあるが十分だと思う。

つまらないものを作る暇があるならば、教育をしろと思う。
左右確認の紙が、教育したつもりなんだろうが、幼稚だ。

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強いものいじめ

今の日本は強いものいじめをしているように見える。

日本人は大きく勝っているものの味方をしないのだ。
出るくいは打たれるである。

みんながそう言っているから正しいのだ、自分で考えたことは無いけど、みんなが言っているから。

個人の問題と集団の問題を同一視してしまう、一人が悪ければその集団は悪いと言う事になってしまう、その人を輩出したその集団はもしかしたら悪の温床かもしれないけど、そうじゃないかもしれない、でも調べるのは大変だ何せ強いものだから。
だったら全部を悪者にして叩いたほうが楽だ。

でも本当にそれでいいのか?
強いものが居なかったら大変なことになら無いだろうか?

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一人っ子

一人っ子について思う。
近年は、まあいろんな事情から一人っ子という場合が良くある。

以前サッカーチームの例だと思ったけど、選手は長男で無い場合が多いが、一人は長男が居ないとチームがまとまらないとあった。

僕は男二人兄弟の次男なんで、今回自分と同じケースについて妄想してみる。

長男は初めての子供であり、親としても不安の中での子育てだろうか?
おそらく必要以上に大切に育てたと思う。
そしてその子が、1~2歳になり次男の誕生である。

次男のほうは、長男と違いある程度のノウハウが親にも蓄積され、それも二人目の男子である、単純に育てると言う事に関しては以前よりは気楽なものだろう。

しかし長男にとっては心中穏やかではない、両親の手の半分が次男に渡ってしまうわけだ、他人なら敵だが、家族であるからどうも味方らしいのでよけいたちが悪い。
しかし同時に自分の身近に変わった動物が居るという興味は持ったはず、俺もこのへんな動物の世話でもするかという、年長者の意識の芽生えだろうか。

生まれたばかりの弟のほうは、何も考えてる様子は無くひたすら泣いて寝ての繰り返しだが、きっと兄をライバルとみている。

例えば兄が5歳児用のおもちゃで遊べば、弟は3歳でそれに触れるわけだ、それによって弟は兄よりも急成長をとげるとおもう。

兄は追いつかれないように努力をし、弟はなんとなくそれを追いかける(が、追いついてしまう)と言う状況の中で、兄は弟を上手く扱うと言う能力を身につけていくのだろうか?
弟は能力はあるのだが、甘えん坊のおバカなんでようは兄の駒となるのだ。

それが最初のサッカーチームの話につながっていく。

さて本題の一人っ子はどうだろう?
自分を脅かし成長させるライバルは居らず、次男のような甘えっぷりを備えてしまうのではないか?

しかし仮に近所などに兄的役割をする年上の子供などが居れば、長男であろうと弟的な成長をとげるだろう。
そして弟のような存在が居れば兄的成長もする。
結局これは何人兄弟でもそうなんだけど、人との繋がりの危惧である。

一人しか子供を育てないと決めたなら、むしろ思い切った育児のほうがその子の成長を満足できる結果となるのだろうか。

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10月1日
今日は朝から雨。
ずーっと本を読んで過ごすが、夕飯はサバの味噌煮に決定したので、買い物に出
かける事にした。
ちょっとそこまでだし、車を使わず散歩がてら傘を差して、買い物袋の風呂敷を
持って、うーむエコ。

買い物はネギと味噌、その他、後100均で事務用品など。
後は服をちょっと見てさあ帰ろうと店を出ると、傘が無い、ショック・・・。
何年も、自分で修理しても使ってたものだけに、高いものではないけどやはり思
い入れがある。
もう10年くらいになるだろうか、よく使ったと言えば使った。

帰り道はやや呆然としながら、雨に濡れながら帰るという行為がまた何とも切な
く、とぼとぼ帰りました。

しかし朝から雨が降ってる中、買い物に来て、傘を盗んで帰るとはどんな人間だ
ろう?
計画性が無く、自分の行動に責任がもてない、人の気持ちが理解できない人か。

ああ嫌だ、そんな人間が身近にいるのだ。
出来ればあの傘が、永く他の誰かの役に立てばせめてもの救いだが。

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